together with global breathing

こころが動いたことを綴ります。永遠に地球が平和でありますように。

セルフグリーフケア ⑤

平成12年1月25日 

静かに静かに

慎重に積もった雪が舞いあがるように寒くて音のない夜だった。

 

前年の3月ころ 父が退職する少し前

治らない風邪を一冬抱えて受診した母に待っていたのは悪性腫瘍疑いの宣告。

鼠蹊部の腫れが気になって、なんか少し痛いし、脱腸かなと思ってね

などいろいろ話したけど、日常生活は父のほうが不便になってきていたし

体はゆっくりうごけば家事はできる、思考もしっかりしていたから家で様子を見ることに。

 

精密検査が進むにつれてはっきり診断名が付かないため隔離する必要があるなどという話になり入院へ。

父は動きにくい体で家で沸かしたほうじ茶を退院するまで母にとどけ続けた。

姉は幼い子供をかかえ、嫁ぎ先からいつも車で見舞っていた。

私は都内で看護学生をしていた。

 

桜の枝が折れていたものを母にビニールにいれて届けたことがある。

まだ寒くて、少ししか咲いていなかったけど。

隔離って邪魔だな、とすごく思った。母が好きな植物に触れられない。

そのときは喜んで受け取ってくれたが、のちに「あの子は私が来年はもう桜が見れないと思って持ってきてくれた」という内容の俳句を詠みとめていた。

複雑な気持ちになった。

 

夏ころには末期の皮膚がんだということがわかっていた。

倦怠感はあっても、普通にひとと会話もできるしそこそこ身の回りのことができるので入院中もそれなりに自立した患者だった。

 

音楽全般を愛し、時々自宅のピアノを弾くこともあった。

昔から習っていたママさんコーラスのサークルに所属し

週に一回の練習日を心から楽しみに息抜きに楽しんでいた。

そのお仲間がが絶えず母を見舞って愚痴を聞いていてくれた。

時々そのお仲間から注意されるほど私はあまり見舞いに行かなかった。

 

夏休みを利用して母の代わりに母の友人を訪ね帯広に行った。

初めての北海道は私も現地の友人にあったり、一人旅をすすめるうえでわくわくするものだった。

帰省した時にラベンダーの何かお土産を渡した。

その時に返ってきたのは、私がもう死んでしまうのに、最高級の物を買ってこなかった、という残念な言葉だった。

あなたは大学まで出してもらって仕事もそこそこに看護学校に入り直して、親からどれだけお金出してもらっていると思っているの、こういうときにちゃんとお返ししなさい、など、親としてのもっともなことを沸々と怒りながら返してきたのである。

コーラスのお友達の目もそうだーそうだーと言っていた。

そういわれて、そうか、そういうものなんだな、お金ってそう使うものなんだな、と教えられたワンシーンがあった。

母は自分で友人を訪ね大地から咲くラベンダーを手にとって香りをすいこみたかったんだな、と後になって気が付いた。

思いやりって難しいな、と。

 

学校がまとまって休みの時は帰省をして病院へ会いにいったが

彼女がこぼすいろんな気持ちや事柄が、その時の私にはどうしても受け入れがたくて本気で言い争うこともあった。

死について話すときもどこか他人事で、ここにいてそこで話して、そういうシンプルなことを伝えられない受け入れてもらえないという苛立ちもあった。

どこまでも、子供だった自分。母であってほしかった自分。

あんたと話すの疲れるわ、といわれてからますます足は遠のいた。

 

 

母の病気が進行するのと並行して父の身体症状も進んだ。

手足が動かしにくいのを頸椎のせいにしてマッサージに通っていたが、パーキンソン病だったということもわかり、父の生活をどうするかということのほうが(母が亡くなった後も含め)姉からのいつもの電話だった。

メインテーマは母への気持ち。と、いかに看病と介護負担が自分にかかっているかという怒りだった。

姉の言うことはいちいちごもっともだな、ということと、どうしたらそこまでエキセントリックに考えることができるのか、という不可解に満ちていた。

 

 

体力がまだある52歳、母は少しでも可能性のある治療を受けることに貪欲だった。

金沢大学まで治療の可能性があるかもしれないと介護タクシーで向かって受診もした。

そのとき初めて痩せこけた母のからだを見たが、シミではない巨大なほくろに全身覆われていた。

これが母を辛くさせる元凶か、とそのあまりの多さに絶望した。

 

孫が小学校までに入学する姿を見たい、と目標もはっきり口にしていた。

実際、なにをやっても体力がおちて元気な細胞がたたかれていくいっぽうで

加療のたびに疲れ果て痩せていった。

 

病院でできることはありません、というので冬には家に帰ってきた。

よたよたしつつ母と父の二人生活がほころびながら始まって。

しばらく一緒にいたけれど、出血がなかなか止まらなくなっており、歯磨きもおちおちできなくなっていた。

夜中でも、日に日に動きが鈍くなっていく母、心配してゆっくり眠ることもままならない父、家族でささえるには限界だった。

父親に準備しはじめたヘルパーさんの導入は母には使えず、また他人に家に入ってもらうことに抵抗がまだ残る時代でもあり年代でもあり、地域性でもあった。

 

そろそろ私の冬休みももう終わり、東京に戻る日が翌日に迫っていた。

いつまで母がうごけるかわからない、姉もすぐにはうごけない、こまごましたことを整えられずにいた私も両親を置いていくのが心配だった。

私は母に入院するか、と聞いた。自分の安心のためでもあった。

母は「家にいさせてよ、ここにいたいんよ」と

はっきり泣きながら言った。

 

私は言葉を失った。

在宅看取りというテロップが流れていったがむなしくもなすすべ無しだな、という脱力感しかなかった。

 

 

富山空港では天候不良で飛行機が遅延していた。

家に電話したら母がでた。

「そうなんけ、しばらくまっとるしかないね。大丈夫だから。気を付けて帰られ」

と今まで通りの会話をしたのが最後だった。

 

 

母の危篤は実習先の病棟で呼び出され知らされた。

新幹線で向かう途中、姉が電話で母とつないでくれた。

 

血が止まらんから昨日入院したんよ、手も足もパンパンで、でも午前中まではばあちゃんとも話ししとったんよ、でも返事がなくなって、先生が(私を)呼んだほうがいいって・・・ お母さんの耳に電話あててるから、しゃべられ・・

早口の姉がもっと取り乱してさらにまくしたてていた。

よびかけてももちろん母から返事が返ってくることはなかった。

 

 駅から病院までのタクシーで、運転手さんにお見舞いですかと尋ねられ

母が危篤なんです、とだけ言えた。

 

個室に寝かされていた母は点滴や尿の管、心電図モニター、あらゆるコードがついていた。

ぜーぜーと大きく呼吸する以外は何も意識的な動きはなく姉が縋りついて泣いていた。

父は部屋の隅っこの椅子に腰かけ、来たんか、とだけ私に声をかけた。

母の兄、叔父さんか、近所の人だったか、はっきり覚えてないけど、ほかにもだれかがいてくれた気がする。

 

モニターの音がフラットになっては復活し、緩やかに遠のいていくのが科学的にはっきりわかるようになっていた。

弱くなるたびに姉が母に呼びかけ、叫び、呼び戻していた。

その絶叫を聞いているほうが苦しかった。

 

二人いた主治医のうちの一人が「もう逝かせてあがてください!」と突然言った。

姉がぴたりと動きを止めて、しばらくして母からの電気信号はまったくなくなった。

 

私たちは少し泣く時間が与えられ、死亡確認があり、夜中なのに看護師が二人きて体をきれいに整えてくれた。

でも寝間着は病院の貸し出しの物だった。

もはや見慣れ過ぎていて、それを返却しなきゃならないのかどうかということにも頭が回らなかった。

 

大きめのバンがきて全員で乗り込んだ。夜勤のスタッフが頭を下げて見送った。

猛吹雪の深夜、冷え込んだ実家に母は帰ってきた。

葬儀屋がてきぱきと事務的なことを進めていく。父と姉がはいはいと決めていく。

姉は葬式までの間毎晩母の隣で眠った。

親戚といとこが納棺をしてくれた。

燃やされる最後まで母は寝息をたてて眠っているようだった。

ばあちゃんが一番憔悴していた。

発病から10か月余、必ず毎週一回、時にはそれ以上、母を見舞いにきてくれていた。

どこに出しても恥ずかしくない自慢の長女をまさか自分が見送ることになるとは、

おばあちゃんのことを思うたびやるせない思いに駆られた。

 

葬儀ではコーラスの仲間さんたちが、美しい涙声で歌って見送ってくれた。

 

火葬が終わって

私はずっしりと重い骨を抱いて車に乗った。

 

 

あとにもさきに、こんなにつまらないと思ったことはない。

私はどこにも居場所がなくて、つまらない、なんてつまんないんだ、と

独り言を言っていた。

 

 

 

 

父や親戚がかばってくれたので、一週間の忌引きを終えて学校に戻った。

 

実習やテストが中途半端におわっており、私は春休みに追試と追実習をしなくてはならなかった。

日ごろ話すこともない、出席日数が足りないような同級生や進級できなくてダブった同級生らとにわかグループを組んで実習。

めっちゃコミュニケーションとりずらい。そして普段よりも実習厳しい。

春休みで寮は閉鎖。神奈川県の叔母宅から通学。片道1時間以上の満員電車。

貫徹で乗り切ったレポートを出しフラフラで打ち上げ。

中央林間と渋谷を2往復して 終電の最後におこされて帰宅。

テストは8割掛けでギリギリの得点でパス。落第を免れた。

 

母を失った悲しみ? なにそれ? 

目の前のことをやっていくだけで必死だった。

 

そこから本当に短い休みがあって、私は長かった髪を金髪パーマにして一人旅をした。

 

どこにもいきたくなかったけど、どこかにいかなければならなかった。

 

 

 

 

3年生になって国試への勉強と実習の毎日が待っていた。

 一日も早く働きたいと思っていた。

そのために必用な学習への意欲は全く出てこなくて何度も職員室に呼びだされた。

 

姉からは、実家にもどり地元で就職し父の介護をしろと

彼女のあいている時間になんどもなんども電話がかかってきた。

 

 

申し訳ないんだけど、これだけは譲れないの。

譲らなかった。

 

 

そんな私を父は「あいつは頑固だから」と笑った。

 

 

 

譲れないのは、私が私を消す直前につかんだ夢をまだみていなかったから。

私がわたしであるうちにこの夢を叶えたい。

 

 

 

みなさんごめんなさい。

これを譲ったら私はもうここにいる意味、ないんです。

 

 

おかあさん、

きっと私が戻ってお父さんをみていたほうが安心だっただろうね。

 

どんな一生だったんやろ。

 

知らなくてもいいことっていっぱいあって、これはそのうちのひとつ。

 

 

 

こんなわたしに産んでくれてありがとう。

 

 

 

 

セルフグリーフケア ④

平成9年2月12日 父の父である祖父がなくなったのは94歳になる直前だった(かも。)

 

どういう経緯で祖母と出会い婿にはいったのか、

戦争をくぐり抜け妻の家業の呉服屋に従事することなく勤め人として仕事を納めた。

 

私が物心ついたときは祖父は茶の湯を趣味とする頑固な老人であった。

満面の笑みで大泣きする赤子の私をだっこする祖父の写真が記憶の中だけにある。

その写真でもすでに祖父の手は節くれごつごつと乾いたものだった。

運動会は私がリレーの選手のときしか来なかった。

負け試合を見るのがいやで必ず勝つ試合だけ見たいんだと母に話していたという。

そのときの写真もすでに杖を手にしているからすでに老いた存在だったんだろう。

いや、亡くなる一年前まで自転車に乗っていたし、健やかに老いた、というべきか。

 

私は小学校4年生のころから大学進学で家を出るまで祖父と一緒に暮らした。

生家ですごした9年間のすべてのシーンに祖父がいた。

 

登校拒否をしたり、暴力行為をうけ私がふさぎ込んでいた時も

覚えていないけどきっと祖父はマイペースな毎日を過ごしていた、少し気にしていてくれただろうけど。

 

禿て髪がないのに毎月床屋にいっていた。

近所の銭湯がすべて廃業するまで週に2,3回は外湯を楽しんでいた。

相撲と巨人が好きで、ひいきが負けた時の不機嫌ぶりは迷惑そのものだった。

年々早寝早起きが進んで、19時消灯2時起床

たまに深夜に家事をしていた母とおはようお休みを言うこともあったとか。

起きてから家の階段や廊下のモップかけ、玄関の掃除に植木水やり、仏間でスクワットなどの独自に編み出した筋トレと青竹ふみ、お湯をポットにいれ、ゆっくりと抹茶を3煎たてて飲んでいるころに夜が明けてくる・・

 

祖母との喧嘩も派手にやっていたがいつもぶつぶつ文句を言って敗北していた。

一度だけ父と喧嘩した時のことはとてもよくおぼえている。

早世の叔父のことをはなしていた時だった。

だいぶお酒が入った父に祖父がガツンといつものとおりに言いはなった。その言葉にかっとなった父が猛反撃。食卓はシーン。父の横でご飯を食べていた私は怖くて泣きだした。姉がギャンギャン何かいっていた、お前泣くな、まで言われた。母がなんとかその場を収めていた。

そのあと仏間で父が泣いていた。叔父のことを思ってないていた。

そのことを思いだすと息が苦しくなる。なんで死ぬことにまつわるとこうなるんだ。

避けられないんだったらしかたないじゃないんだろうか

どうしてここまで死んでない人があらゆる部分を削がれてゆくのか。

みんな死ぬんだ、でもここまでくたくたになるまで死ぬを引っ張らないでもいいんじゃないだろうか。

 

 

小さな小さなわがやという世界の中に疑問符が渦巻いていた。

 

 

 

子供から大人の入り口に至るまでの時期を祖父とすごしたからか

こまかい思い出が数え切れないぐらいある。

今にして思えばそういう受け皿が祖父だったんだと腑に落とせることもたくさんある。

ただただ、楽しかったなあ、ありがとうって思う。

 

 

身の周りのことができなくなって、ナーシングホームのようなところに入った。

高血圧以外はとくに大きな病気もなく、老衰、というごく自然なながれだった。

どこに出しても恥ずかしくない嫁だった母にとっては

屈辱と安堵の混じった終の棲家への移動だっただろう。

 

少しやりとりができなくなってきてから、眠る時間が長くなって

ある晩そっと一人で旅だっていったときいた。

私は次の人生に向けて走り始めた時だったから、穏やかだった祖父の最期を聞いてとても安心した。

だれもが口にした大往生の意味をかみしめ、私も全力で生きるんだ、と誓った。

 

 

予想された死の準備は万端で

くる人たちは皆優しい涙で見送ってくれた。

 

なんていうんだっけほら、そう、こういうのを予定調和、っていうか。

采配がゆだねられた時にこそ完璧に限りなく近い輝きをみせるんだろう。

 

 

どこにも無理がかからない

生まれて死ぬ、当たりまえのながれを当たりまえにできる

そういうのっていうのかなー

 

 

 

 

 

セルフグリーフケア ③

父の母、祖母はカッコいい人だった。

 

お嬢育ちなのに分家し家業を継いでからは苦労の連続。

保証人になったばっかりに身ぐるみはがされ路頭に迷ったこともあった。(とか。)

 

新しいものが好きで、派手なものも変なものも構えずに家業へも取り入れていたので

ついているお客さんには絶対の信頼を得ていた。(とかいないとか)。

あまりに美人だったからもててもてて仕方なかった、

見合いの話はひっきりなしでお断りするのが困ったほどだった、など武勇伝は数知れず。

(実際、おしとやかな祖母の妹が帰省した時は近所の男性が何人も顔を見に訪問してくれていた。モテモテは妹さんのほうだったんじゃないのか??!)

 

8月7日生まれ、しし座の彼女のお話はちょっぴり大盛のときもあった。

そういうおちゃめな明治女だった。

 

商売人だったので家のことはとにかく最小限の手のかけよう。

食事は向いの魚屋さんで買ってくることがほとんどで、父はどうしても母には専業主婦でいてほしかったと。

祖母の手料理、というものを食べた記憶はあまりない。

母親業の役割が彼女の分担ではなかったんだろう。

でもお手伝いさんを雇うほど裕福ではなかったので、それなりに家事をしていたんだろう。

いつも祖父とは喧嘩が絶えなかったが6人の子供をもうけた。

 

のれん分けをして3代目の呉服屋だった。

色の明暗・光彩、組み合わせの妙、季節に応じた素材選択、

人の肌色に応じて見分けて選ぶことはずば抜けて目が良かった。

ピンクぽい色白の姉にはいつも柔らかい桃色の着物を

ざっつ黄色人種でみかんばっかり食べている私にはからし色を

またそれがぴったりとはまる。

 

 

お着物の雑誌を見ながら夜更かしして帳簿つけ。

それがいつの間にか針を片手にテレビでフィギュアスケートをみるのが習慣になり

なぜかボクシング観戦をこよなく愛した。

 

美とファイトが同居する着道楽を生き抜いた祖母だった。

 

大腸がんが見つかってから入院、お看取りまでは駆け足だった。

 

 

高校受験が終わった中学の消化授業を受けているとき学校で呼び出しがあって、おばあちゃん亡くなったんだって、と。

古いパイプのベッドで祖母は静かな時間を迎えていた。

 

病院にお見舞いにいったのも数えるくらいだったが、ほとんど覚えていない。

そのときに、息子である父がどうだったとか、

夫である祖父がどうだったとか、

周りの親戚たちがどうだったか、なにも覚えてはいない。

 

その時の気持ちも、印象にまったくのこっていない。

なんて不思議なんだろう。

何十年も前のことだけど、私はこころから私のことだけに集中していたに違いない。

 

祖母の厳しいしつけと不文律の家訓。

暗黙の恐怖政治だったけど、そういうものだと思っていた。

おかげで横道それたらいかんな、ということだけは身に染みて育った。

5,6年一緒に暮らしただろうか。

 

祖母がいなくなってさみしくてたまらない、というよりも

おつかれさーん、というさっぱりした言葉が似合う。

 

楽しい思い出ありがとう、ばあちゃん。

 

 

 

 

 

セルフグリーフケア ②

叔父について。

 

どうして、こうも書き進められない痛みがはしるんだろう。

それはとうに彼の痛みではないはずで

30年近くたっているにもかかわらず、彼を愛し続けている妻と子供たちの想いのほかに

なにがあるといえるんだろう。

 

何も知らない私が叔父さんについて書くことに

許可がいるとか要らないとかという話になるのだったら気持ちよく抹消してほしい。

 

何も知らないことが多くを傷つけていることはいっぱいみてきた。

一瞬でもそうであるならば、よろこんで削除しよう。

 

連絡がなくなって久しい大切な血筋の皆さま、叔父さんのことを書きます。

見逃してください。

 

 

叔父さんはめちゃめちゃかっこよくて、映画スターのようにスタイル抜群、大柄な体躯は野球選手のようだった。

叔母さんとの新婚旅行で着ていたアロハシャツがはにかむくらい眩しい素敵な紳士だった。

頭もよくて、お酒も強くて、銀行に勤めていて、ジョークも冴えてて

何よりも家族や社会に責任と倫理をつよくもった、非の打ちどころのないひとだった。

頼もしくて頼りがいがあって、何をさせても絵になる叔父さんだった。

 

訃報はいつも突然にやってくる。

叔父さんが亡くなったんだって、だからお悔やみに行こうと

中学校から帰ってきたときに涙ながらの母に言われ、何をいってるのか全く理解できなかった。

 

叔父さんね、昨夜はお客さんのお付き合いとお接待で遅くまでお酒を飲んでいたんだって、それで散会したあと、おじさん一人だけ寒い外で残されたんだって、そのあと誰も叔父さんをみてくれていなかったんだって、帰ってこれなかったんだって、・・・と母が要領を得ない話をするが耳に入ってこない。

 

姉と母と一緒に行ったんだろうか、まったく信じられなくて叔父さんの家に行った。

間口の広いガラスの引き戸だった玄関は開けっ放しで

近所の人があわただしく出入りしている。だれもが声をひそめている。

叔母さんは座っていることもできなくて倒れていた。

近くにいとこが泣きながら座っていた。

いつもそろばん教室をしていた広いお部屋は、正面に納棺されている叔父さんへとどく真ん中以外は座布団が敷かれていた。

 

棺の中の叔父さんは眠っているように穏やかで、普段とまるで変わらなかった。

お顔以外はお花で満たされていてなにがどうなっているのかよくわからなかった。

なんでー!?と何度も絶叫した。ガクガクと震えがきてその場で動けず焼香もお参りもできなかった。

母が私の両肩をがっしりとつかんで外へ引きずりだした。

 

そのあとのことは詳しく覚えてない。

 

田舎の因習に一ミリも逆らわないように滞りなく式は終了したんだろう。

それは何年も継続されてきたんだろう。

 

そのあとの叔母さんやいとこたちの姿は見ていてとても辛いものだった。

いつこころから笑顔になることができるんだろうって思っていた。

病気がちだった祖母が、これじゃいかん、とあれこれ世話を焼きはじめメキメキ健康になった。

逆境に強い祖母と、

父は「お父さんだと思って」と、二人とも強いサポーターになった。

 

そんな祖母の死のとき、叔母さんは不死鳥のように蘇りお葬儀を取り計らってくれた。

血が血をささえたのである。

 

大黒柱を失っても母子は3人で頑張って生きてきた。

いまも。きっと。

 

 

 

そのころから

どうして人間って死ぬんやろ

死んだらどうなるんやろ、

 

どうしたら笑顔で死んで、みんなも笑顔でサヨナラできるんやろ、って

ぼんやりと考え始めてた。

 

 

部活で真っ黒になって苦悶していた中学時代。

まだ偏差値でしか未来をはかれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

セルフグリーフケア ①

 

伯父さんから聞いた祖父はまったく知らない人物だった。

幼くして両親を失い、さらに幼い妹は寺に預けられ

祖父はまだ体も少年だった時分から身を粉にして働いていたという。

お金になるような仕事は何でもやった、でも妹をに養えるほどにはならないため

事業をはじめることにしたという。

それが瓦屋だった。

食べていけるようになるまでの苦労は、それは筆舌につくりがたかったであろう

誰もきいたことはなかった。

妹を引き取り、女学校にいかせ、嫁がせ、自分も結婚し、4人の子供に恵まれた。

一代で築いた瓦屋は北陸ではそこそこ名前がしれるほどにまで大きくなった。

 

生来の苦労人だった祖父に胃がんが見つかり、母親の実家近くの病院に入院していた。

私は祖父にとって3番目の孫。しかも外孫。女児。かなりどうでも良くなっていくポジション。

帰省した時に母親と見舞いに行った。

 

じ「みか、わしはもうダメだよ」

み「じいちゃん、寿命だよ」

 

このやりとりに祖父も祖母ものけぞったとあとで聞かされた。

 

お見舞いに行ったのは覚えているけどこんな会話は記憶にない。

母親はその後に笑ってこんなこと言うなんてねえと軽く私をいさめたが

覚えがないのによくわからないままそうだっけとごまかしていた。

 

ほどなくして祖父は亡くなった。

本当に寿命だったんだ。

でも電話で訃報をうけとったは母はその場に泣き崩れていた。

私はかける言葉もどうしていいかもわからずに母をみていた。

自室に戻って勉強机に座って少し泣いた。

おじいちゃんありがとう、と言ったか言わなかったか、何かを言葉にした。

 

じいちゃんの葬式はそれはそれは派手で豪華でエンターテイメントだった。

見えなくなるくらい先まで壁より高い花輪が寺から路面電車まで続いており

町中の人やそれ以上の人がひっきりなしに弔問にやってきた。

祖母と、じいちゃんの長男であるおじさん(喪主?)は真っ白い着物。

帯も靴もカバンもすべて白装束での葬式。美しかった。

 

11人いた孫は、全力で再会を喜び寺中を走って遊んでいた。

私たちが制服でみんなで転がって笑ってじゃれあったことは、この日以外、後にも先にもなかった。

誰も注意する大人はなく、ただただまぶしい日差しが降り注いでいた。

 

初めて経験したお葬式は、とても楽しかった。

それはとても私には幸せなことで

そのあとのことにもずっと響いていくことだった。

 

 

hope

 

時計を確認したのはそのあとだったけれど午前3時。

 

どのくらいの時間夢の中で横たわっていたのかわからない。

 

腹部が拡大しており、白い地図を大きく広げたようになっていた。

上からお腹がみえるようになっていて誰かがまわりにいるような気配がある。

 

白い地図には、緑色した三角屋根の小屋がパッチワークのように描かれている。

ところどころ切れているような蛇行した下手くそな道のラインがあったり

まだ物の形を視覚でとらえられないような幼子が作った旗のようだった。

 

生暖かい少しおされるような手の感触はみぞおちを中心にしてあり

ゆったりと撫でられているようでもあり、変化させられているようにも感じた。

 

その始まりも終わりもよくわからない時間の中で

ああ、変わったんだな、ということが身をもって自覚されてきた。

体は間違いなく三次元にあり、

この次元に合わせた時間の法則にのっとるべきなのだろうが

そういうルール違反ももう認知されているかのように

今までだったら誰も信じられないような方法で、大きく変わったんだ、と

そういうふうな体感がわいてきた。

 

その感触が感覚にとどくと、思考は歓喜で満たされた。

そうだったのか、こういう変容を肉体で受け取ることに意味があったんだ、と。

 

なんの根拠もないが、深々と安心感につかるように幸せな思いがうちよせ

こういうことに今までの道のりが必要だったんだと納得がいった。

 

 

ほんの白昼夢

 

夢でもなく現実でもないような

リアリティだけが頭の片隅に

「それは私には真実」と告げている。

 

 

 

 

スイカズラ

ハニーサックルが日本に入ってきてスイカズラになった。

ジャポニカハニーサックル、とでも言おうか。

たびたび街中で目にするようになったのは育てやすく強いからだろう。

 

白い花は下から順番に咲き、やや細長い葉は部分的に貫生葉、バッチの選んだそれとは少し異なっているけれど

甘いジャスミン様の香りが闇夜に充満し、特定の蛾を誘う様子は

人目につかない逢瀬を彷彿させてしかたがない。

 

過去から現在に目を向けさせるけれど

過去のそれはそれは素晴らしかった栄光を知っているのはこの花の特権だろう。

 

存分に味わい尽くしてから戻ってきたらよい

その味わっている今も、どこでもない現在にいるのだから。

 

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阿蘇スイカズラも甘く美しく

そして刈られても地を這っていた

 

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