平成12年1月25日
静かに静かに
慎重に積もった雪が舞いあがるように寒くて音のない夜だった。
前年の3月ころ 父が退職する少し前
治らない風邪を一冬抱えて受診した母に待っていたのは悪性腫瘍疑いの宣告。
鼠蹊部の腫れが気になって、なんか少し痛いし、脱腸かなと思ってね
などいろいろ話したけど、日常生活は父のほうが不便になってきていたし
体はゆっくりうごけば家事はできる、思考もしっかりしていたから家で様子を見ることに。
精密検査が進むにつれてはっきり診断名が付かないため隔離する必要があるなどという話になり入院へ。
父は動きにくい体で家で沸かしたほうじ茶を退院するまで母にとどけ続けた。
姉は幼い子供をかかえ、嫁ぎ先からいつも車で見舞っていた。
私は都内で看護学生をしていた。
桜の枝が折れていたものを母にビニールにいれて届けたことがある。
まだ寒くて、少ししか咲いていなかったけど。
隔離って邪魔だな、とすごく思った。母が好きな植物に触れられない。
そのときは喜んで受け取ってくれたが、のちに「あの子は私が来年はもう桜が見れないと思って持ってきてくれた」という内容の俳句を詠みとめていた。
複雑な気持ちになった。
夏ころには末期の皮膚がんだということがわかっていた。
倦怠感はあっても、普通にひとと会話もできるしそこそこ身の回りのことができるので入院中もそれなりに自立した患者だった。
音楽全般を愛し、時々自宅のピアノを弾くこともあった。
昔から習っていたママさんコーラスのサークルに所属し
週に一回の練習日を心から楽しみに息抜きに楽しんでいた。
そのお仲間がが絶えず母を見舞って愚痴を聞いていてくれた。
時々そのお仲間から注意されるほど私はあまり見舞いに行かなかった。
夏休みを利用して母の代わりに母の友人を訪ね帯広に行った。
初めての北海道は私も現地の友人にあったり、一人旅をすすめるうえでわくわくするものだった。
帰省した時にラベンダーの何かお土産を渡した。
その時に返ってきたのは、私がもう死んでしまうのに、最高級の物を買ってこなかった、という残念な言葉だった。
あなたは大学まで出してもらって仕事もそこそこに看護学校に入り直して、親からどれだけお金出してもらっていると思っているの、こういうときにちゃんとお返ししなさい、など、親としてのもっともなことを沸々と怒りながら返してきたのである。
コーラスのお友達の目もそうだーそうだーと言っていた。
そういわれて、そうか、そういうものなんだな、お金ってそう使うものなんだな、と教えられたワンシーンがあった。
母は自分で友人を訪ね大地から咲くラベンダーを手にとって香りをすいこみたかったんだな、と後になって気が付いた。
思いやりって難しいな、と。
学校がまとまって休みの時は帰省をして病院へ会いにいったが
彼女がこぼすいろんな気持ちや事柄が、その時の私にはどうしても受け入れがたくて本気で言い争うこともあった。
死について話すときもどこか他人事で、ここにいてそこで話して、そういうシンプルなことを伝えられない受け入れてもらえないという苛立ちもあった。
どこまでも、子供だった自分。母であってほしかった自分。
あんたと話すの疲れるわ、といわれてからますます足は遠のいた。
母の病気が進行するのと並行して父の身体症状も進んだ。
手足が動かしにくいのを頸椎のせいにしてマッサージに通っていたが、パーキンソン病だったということもわかり、父の生活をどうするかということのほうが(母が亡くなった後も含め)姉からのいつもの電話だった。
メインテーマは母への気持ち。と、いかに看病と介護負担が自分にかかっているかという怒りだった。
姉の言うことはいちいちごもっともだな、ということと、どうしたらそこまでエキセントリックに考えることができるのか、という不可解に満ちていた。
体力がまだある52歳、母は少しでも可能性のある治療を受けることに貪欲だった。
金沢大学まで治療の可能性があるかもしれないと介護タクシーで向かって受診もした。
そのとき初めて痩せこけた母のからだを見たが、シミではない巨大なほくろに全身覆われていた。
これが母を辛くさせる元凶か、とそのあまりの多さに絶望した。
孫が小学校までに入学する姿を見たい、と目標もはっきり口にしていた。
実際、なにをやっても体力がおちて元気な細胞がたたかれていくいっぽうで
加療のたびに疲れ果て痩せていった。
病院でできることはありません、というので冬には家に帰ってきた。
よたよたしつつ母と父の二人生活がほころびながら始まって。
しばらく一緒にいたけれど、出血がなかなか止まらなくなっており、歯磨きもおちおちできなくなっていた。
夜中でも、日に日に動きが鈍くなっていく母、心配してゆっくり眠ることもままならない父、家族でささえるには限界だった。
父親に準備しはじめたヘルパーさんの導入は母には使えず、また他人に家に入ってもらうことに抵抗がまだ残る時代でもあり年代でもあり、地域性でもあった。
そろそろ私の冬休みももう終わり、東京に戻る日が翌日に迫っていた。
いつまで母がうごけるかわからない、姉もすぐにはうごけない、こまごましたことを整えられずにいた私も両親を置いていくのが心配だった。
私は母に入院するか、と聞いた。自分の安心のためでもあった。
母は「家にいさせてよ、ここにいたいんよ」と
はっきり泣きながら言った。
私は言葉を失った。
在宅看取りというテロップが流れていったがむなしくもなすすべ無しだな、という脱力感しかなかった。
富山空港では天候不良で飛行機が遅延していた。
家に電話したら母がでた。
「そうなんけ、しばらくまっとるしかないね。大丈夫だから。気を付けて帰られ」
と今まで通りの会話をしたのが最後だった。
母の危篤は実習先の病棟で呼び出され知らされた。
新幹線で向かう途中、姉が電話で母とつないでくれた。
血が止まらんから昨日入院したんよ、手も足もパンパンで、でも午前中まではばあちゃんとも話ししとったんよ、でも返事がなくなって、先生が(私を)呼んだほうがいいって・・・ お母さんの耳に電話あててるから、しゃべられ・・
早口の姉がもっと取り乱してさらにまくしたてていた。
よびかけてももちろん母から返事が返ってくることはなかった。
駅から病院までのタクシーで、運転手さんにお見舞いですかと尋ねられ
母が危篤なんです、とだけ言えた。
個室に寝かされていた母は点滴や尿の管、心電図モニター、あらゆるコードがついていた。
ぜーぜーと大きく呼吸する以外は何も意識的な動きはなく姉が縋りついて泣いていた。
父は部屋の隅っこの椅子に腰かけ、来たんか、とだけ私に声をかけた。
母の兄、叔父さんか、近所の人だったか、はっきり覚えてないけど、ほかにもだれかがいてくれた気がする。
モニターの音がフラットになっては復活し、緩やかに遠のいていくのが科学的にはっきりわかるようになっていた。
弱くなるたびに姉が母に呼びかけ、叫び、呼び戻していた。
その絶叫を聞いているほうが苦しかった。
二人いた主治医のうちの一人が「もう逝かせてあがてください!」と突然言った。
姉がぴたりと動きを止めて、しばらくして母からの電気信号はまったくなくなった。
私たちは少し泣く時間が与えられ、死亡確認があり、夜中なのに看護師が二人きて体をきれいに整えてくれた。
でも寝間着は病院の貸し出しの物だった。
もはや見慣れ過ぎていて、それを返却しなきゃならないのかどうかということにも頭が回らなかった。
大きめのバンがきて全員で乗り込んだ。夜勤のスタッフが頭を下げて見送った。
猛吹雪の深夜、冷え込んだ実家に母は帰ってきた。
葬儀屋がてきぱきと事務的なことを進めていく。父と姉がはいはいと決めていく。
姉は葬式までの間毎晩母の隣で眠った。
親戚といとこが納棺をしてくれた。
燃やされる最後まで母は寝息をたてて眠っているようだった。
ばあちゃんが一番憔悴していた。
発病から10か月余、必ず毎週一回、時にはそれ以上、母を見舞いにきてくれていた。
どこに出しても恥ずかしくない自慢の長女をまさか自分が見送ることになるとは、
おばあちゃんのことを思うたびやるせない思いに駆られた。
葬儀ではコーラスの仲間さんたちが、美しい涙声で歌って見送ってくれた。
火葬が終わって
私はずっしりと重い骨を抱いて車に乗った。
あとにもさきに、こんなにつまらないと思ったことはない。
私はどこにも居場所がなくて、つまらない、なんてつまんないんだ、と
独り言を言っていた。
父や親戚がかばってくれたので、一週間の忌引きを終えて学校に戻った。
実習やテストが中途半端におわっており、私は春休みに追試と追実習をしなくてはならなかった。
日ごろ話すこともない、出席日数が足りないような同級生や進級できなくてダブった同級生らとにわかグループを組んで実習。
めっちゃコミュニケーションとりずらい。そして普段よりも実習厳しい。
春休みで寮は閉鎖。神奈川県の叔母宅から通学。片道1時間以上の満員電車。
貫徹で乗り切ったレポートを出しフラフラで打ち上げ。
中央林間と渋谷を2往復して 終電の最後におこされて帰宅。
テストは8割掛けでギリギリの得点でパス。落第を免れた。
母を失った悲しみ? なにそれ?
目の前のことをやっていくだけで必死だった。
そこから本当に短い休みがあって、私は長かった髪を金髪パーマにして一人旅をした。
どこにもいきたくなかったけど、どこかにいかなければならなかった。
3年生になって国試への勉強と実習の毎日が待っていた。
一日も早く働きたいと思っていた。
そのために必用な学習への意欲は全く出てこなくて何度も職員室に呼びだされた。
姉からは、実家にもどり地元で就職し父の介護をしろと
彼女のあいている時間になんどもなんども電話がかかってきた。
申し訳ないんだけど、これだけは譲れないの。
譲らなかった。
そんな私を父は「あいつは頑固だから」と笑った。
譲れないのは、私が私を消す直前につかんだ夢をまだみていなかったから。
私がわたしであるうちにこの夢を叶えたい。
みなさんごめんなさい。
これを譲ったら私はもうここにいる意味、ないんです。
おかあさん、
きっと私が戻ってお父さんをみていたほうが安心だっただろうね。
どんな一生だったんやろ。
知らなくてもいいことっていっぱいあって、これはそのうちのひとつ。
こんなわたしに産んでくれてありがとう。