together with global breathing

こころが動いたことを綴ります。永遠に地球が平和でありますように。

今夜の二本

「Born to be blue」

トランペット奏者、チェット・ベイカーどん底から這い上がってくるまでのドラマ。
1960年代、マイルス・ディビスなどの黒人一色のジャズ界に白人スター現る。でもお約束でドラッグと暴力にからめとられ。チェットをイーサンホークが、ヒロインはカルメン・イジョゴ。イーサンの甘い震える声と、いつもラリっているような態度、音楽だけは誰にも(彼女の両親にも)譲れない強い姿勢、音楽映画にありがちなファンの望む演奏シーンだけではなく、本気でチェットになっている。トランペットの良し悪しを聴き分けられないけれど、ささやくような音がセクシーでたまらなかった。最後のシーン、歌詞を理解してネックレスを外し、涙をこぼすけれど毅然と店をでていくカルメンの潔さ、美しさ、震えた。それを見送るまなざしの切ないこと。

ロバート・バトロー監督。

 

「好きにならずにいられない」

アイスランドから届くラブストーリーはまた切ない。フーシ(グンナル・ヨンソン)は43歳デブのパラサイトシングル。会社ではいじめられ、戦争ごっことジオラマを愛するオタク。航空会社に勤め有給も取ったことがなく海外にも行ったことはない。13歳の少年がそのまま30年たってしまった感。彼がダンスの会で送った女性に恋をした。盲目。献身。どうみたってこれハッピーエンドやん、いや違う。彼女は辛い気持ちを持て余し自分でもどうにもできずフーシを振り回す。「どうしてほしい?」彼の質問はこころからの言葉だった。箱庭だった彼の世界がどんどん広がって、見えない壁をこえていく。

 

フーシの姿にはすごく勇気づけられた。

どんなことだって、生きていく糧になるんだ。

 

 

セルフグリーフケア ⑧

平成27年8月26日

 

義兄とのコミュニケーションはもっぱら雰囲気だった。

コーマワークといってもいいかもしれなかった。

でも、一対一で対話する機会はないままだった。お看取りの数週間前までは。

 

 

親戚から聞いた彼について。

 

小学校にあがるぐらいからか、転ぶような感じが続いて、バランスがとれなくなり、歩くのが難しくなっていった。

原因はわからない、病名もはっきりしない、ただ自立して歩いたり明確に話すことができなくなっていった。

 

企業戦士だった父は日本中、時には海外まで飛んで日本経済高度成長に貢献した年代の人だった。

ゆえに看護師だった母が彼を全力で育てた。可能な限り自宅から学校へ通った。

彼の世界がベッドの上で生活を終結するようになるまで時間はそうかからなかった。

 

叔母さんからうながされて彼の食事を胃瘻から注入したことが一度ある。

不思議な気持ちだった。

 

 

母が亡くなり、遺言の「私が死んだら施設へ預けて」には従わず

父が高齢で自宅介護ができなくなるまで家で過ごした。

 

父は毎日お見舞いにいった。

さみしい思いをしないように、ね、と。

 

 

父が亡くなり、父の恋人が父に代わりお見舞いや洗濯のため面会に来るようになっていた。

 

そんな春先から、原因不明の発熱を繰り返すようになった。

夫が面会にいくと少し回復する、というペースで原因がわからないまま抗生剤の点滴を使ったりしていた。

 

夫と交代で面会に行った。

ゆっくり手足を伸ばしたり、気になるところを拭いたり、オイルマッサージをしたり、お邪魔にならないようにできることをやっていた。

 

意識が行ったり来たりしている感じはあってもお話は聞いてらっしゃるなあ、と雰囲気でなんとなく。

 

もう逝くことを考えているんですね

さみしい思いもあったり、でもけしてこちらに強要しない

引き取って見られないことへの罪悪感など全く感じさせない

 

お義兄さんの、一番いいタイミングで、決めてくださいね。

その声かけが最後で、お答えが命日だった。私たちの入籍日だった。

 

 

55歳。

どんな毎日を、どんな風に感じて、ここで終いにされたのだろう。

 

計画されてきたこと、まっとうなさったんでしょうね。

 

 

穏やかな時間を最後にくださってありがとうございました。

 

 

 

 

 

セルフグリーフケア ⑦

平成26年9月2日

 

義父には結婚して10年のあいだに何度会いに行っただろう。

毎年は帰省していないから数えられるくらい。

 

6月に癌がみつかるまではすこぶる元気で車を飛ばして帯広から札幌まで野球観戦にいくほどだった。

 

初めて紹介されたときも元気いっぱいお仕事をなさっていて

78歳ぐらいまであちこちから声をかけられ働いていらした。

部下や仲間からも信頼があり多くから慕われていた。

そのことがわかったのが葬儀の時だった。

 

妻を亡くして22年。十年以上付き合っている恋人がいた。

趣味は社交ダンスにゴルフ。カラオケもお上手だったと。

 

病気がわかったのは青天の霹靂で、とにかく手術だ!と意気込んでいた。

数年前に大腸がんの極初期のポリープを切除し、それ以降どこも悪いところはなかった。

だから今回もそのように治るものだと話す耳には本当の話は届かないものか。

転移もあり通過障害もあり、手術はできない、症状を和らげ経過をみていくしかない。

 

ほぼ無職だった私に何かできることはないですか、と尋ねたけれど

こっちは大丈夫だから(彼女さんもいるとのこと)、こなくていい、ととても明朗におっしゃった。

お見舞いに伺ったときは変わらずニコニコと出迎えてくださった。

ご自身が食べられないのに、北海道の刺身を切ってくださったり、煮物を作っておいたと、ビールもやって、と最大限のおもてなしをしてくださった。

夫はお休みを工面して帰省するが、仕事してきて、といわれると。

 

親はどこまでも親であるんだろうな。

 

 

なすすべがないとわかって、家で過ごすのが難しくなって入院してからおっしゃったことは

「死んだらどうなるんだろうな」

という言葉だった。

 

 

 

お義父さん、お疲れさまでした。

 

どうなりましたか?

 

 

 

ありがとうございました。

 

 

セルフグリーフケア ⑥

平成25年4月16日

春の兆しもまだ遠い、雪の残る田畑がひろがる姉の嫁ぎ先で父は亡くなった。

 

妻を亡くした夫は寿命が短くなるという統計をまずまず裏切って

父は母が旅立って13年生きた。

男性の平均寿命にもやや届かなかったけれど、

パーキンソン病胃がんを持ちながらも頑張って生きてくれた。

 

ゆっくり進行する症状にあわせ、父の生活全般は姉が姉の希望で一手に引き受けていた。

退職し、妻を見送り、しばらくは一人で過ごしたが、家の改造や姉のサポートなしでは父は家で過ごすことはできなくなっていった。

 

都内の看護学校を卒業し大阪で仕事を始めたわたしはいわゆる何もしない使えない娘で

父に勘当された姉に勘当されたり、家族の生々しい思いだしたくないことが何年も続き責められ続けた。

そのたびに自分のなかも意固地により固くひっこんでいくのもわかっていた。

 

いつのころからだろ、

聞いたこともないひどい言葉や嫌み、一方的な思い込みに、もうどうでもいいや、って思えたのは。

 

ほんとにどうでもいいと感じはじめて、嫌なことはあったけど覚えていないようになった。

幸せな方法を身につけたんだろうな。

よかった。

 

だから、思いだせる父のことを書いておこうと思う。

そう思うと切ないけどうれしい。

 

 

 

 

父は次男で生まれたけれど戦争で兄を亡くし次男長男として両親をささえた。

幼稚園がつまらないと抜け出して一人で川遊びをしてしかられたり

おもちゃが戦火でなくなったときの話をしてくれたり

大学時代は仲間と車で北海道一周をしたり、片足を骨折してもそのままスキーを満喫して就職を逃したり

新聞記者になりたかった、といいつつ製薬会社で勤め上げたひと。

何十回と見合いを祖母にさせられて、30までは結婚したくないと逃げ続け

大阪に団地をかってやるから、この人と結婚しろ、ともってこられたのが母だった。

母にとっては初めての見合いに徹夜でマージャンをやったその足で遅刻してきた父をみて、この人はなんてよく食べる人だろう、と初対面のイメージを語ったことがある。

父はがつがつご飯を食べてちらっと母を見ただけでお見合いは成立した。

いい時代だった。

 

姉が赤ちゃんのころ父のポケットに入っていた煙草を飲みこんで救急車で運ばれたことがある。

それ以来ぴたっと煙草を吸うことはなくなった。

だから私の記憶の父は大酒のみで麻雀とキャンプが好きな父しかない。

頭の回転が早くてジョークばかり。職場の仲間とよく登山にもでかけていた。

近郊の山に家族を連れていったが私はその山道が辛くて文句ばかり言っていた。

背が高くてひょろっとしていた父を、ひそかに母は絶賛していた。

私は小4まで父の背中に張り付いて甘えていた。

父が一度だけ会社の運動会に私を連れていってくれたことがあった。

知らない人だらけなのに、人見知りもせずあれこれと競技に出てお菓子や文房具をもらった。

夕やけの中、父に手をひかれ帰った記憶がある。 

 

単身赴任生活も長かった。一人暮らしの父の団地に行ったことが一度あった。

ごちゃっとしながら父なりの法則で整理しているということだった。

その時はさらに痩せていて、母はいつも心配していた。

 

仕事し始めたら一生働くんだから、学生の間は働かないで勉強しなさい、と、バイトは禁止され仕送りをしてくれていた。

それも申し訳なく、バイトをしながら過ごした時期もあったが、いつも食べるものに困らないように、と気を配ってくれていた。

 

一度だけ、母と父と、3人で立山に登ったことがあった。

父の体が少しずつ不自由になっていて、母がかばいながら寄り添ってゆっくりあがった。

私を見失うまいと首に巻いていたピンクのタオルを目印にしていたんだ、などやっとの思いで登頂し、ワハハと笑った。

動きが鈍ってもとても楽しそうにしていた。

私も3人で出かけたことはほとんどなかったので強く印象に残っている思い出。

母はお世話できるのが幸せそうだった。

 

難病で不自由になってからはたびたびしか会いに行っていなかった。

でも顔をみたら喜んでくれていたのは伝わってきてさらに申し訳なくなった。

肺炎になって気切したり胃瘻をつくったり意識が落ちたり

緊急に入院したときには呼ばれて行くこともあったが、そのたびに意思の疎通が難しくなっていった。

 

 

私が父にかかわったのは亡くなる前の3か月間だけだった。

姉が、くたびれた、もう見れん、私の人生を生きたい、と言った。

私は12月で仕事を辞め、1月に名古屋の緩和ケア病棟に入院した父のところへ数日の泊りを決めて毎週通った。

言葉ははっきり出ることはなかったが、歯磨きをしたり、マッサージをしたり、そばで読書をしたり、できるだけ話をした。

私は父と二人の時間を心から感謝して過ごした。

 

 入院が三か月になると転院を勧められるのが常識で

姉も悩んだ結果また父を自宅へ引き取ることにした。

先の見えない介護に、どれほどその決断に勇気と覚悟が要っただろう。

 

そして年金支給日を一日過ぎたあと、家に帰って2週間足らずで父は旅立った。

 

 

 

そのあとのことは、激しい感情が嵐のように続く毎日で思いだせない

 

思い出さなくてもいいようにしよう

 

思いもかけないことばっかりで

 

 

大切に育ててもらったこと、ほんとうにありがとうございました。

 

 

 

セルフグリーフケア ⑤

平成12年1月25日 

静かに静かに

慎重に積もった雪が舞いあがるように寒くて音のない夜だった。

 

前年の3月ころ 父が退職する少し前

治らない風邪を一冬抱えて受診した母に待っていたのは悪性腫瘍疑いの宣告。

鼠蹊部の腫れが気になって、なんか少し痛いし、脱腸かなと思ってね

などいろいろ話したけど、日常生活は父のほうが不便になってきていたし

体はゆっくりうごけば家事はできる、思考もしっかりしていたから家で様子を見ることに。

 

精密検査が進むにつれてはっきり診断名が付かないため隔離する必要があるなどという話になり入院へ。

父は動きにくい体で家で沸かしたほうじ茶を退院するまで母にとどけ続けた。

姉は幼い子供をかかえ、嫁ぎ先からいつも車で見舞っていた。

私は都内で看護学生をしていた。

 

桜の枝が折れていたものを母にビニールにいれて届けたことがある。

まだ寒くて、少ししか咲いていなかったけど。

隔離って邪魔だな、とすごく思った。母が好きな植物に触れられない。

そのときは喜んで受け取ってくれたが、のちに「あの子は私が来年はもう桜が見れないと思って持ってきてくれた」という内容の俳句を詠みとめていた。

複雑な気持ちになった。

 

夏ころには末期の皮膚がんだということがわかっていた。

倦怠感はあっても、普通にひとと会話もできるしそこそこ身の回りのことができるので入院中もそれなりに自立した患者だった。

 

音楽全般を愛し、時々自宅のピアノを弾くこともあった。

昔から習っていたママさんコーラスのサークルに所属し

週に一回の練習日を心から楽しみに息抜きに楽しんでいた。

そのお仲間がが絶えず母を見舞って愚痴を聞いていてくれた。

時々そのお仲間から注意されるほど私はあまり見舞いに行かなかった。

 

夏休みを利用して母の代わりに母の友人を訪ね帯広に行った。

初めての北海道は私も現地の友人にあったり、一人旅をすすめるうえでわくわくするものだった。

帰省した時にラベンダーの何かお土産を渡した。

その時に返ってきたのは、私がもう死んでしまうのに、最高級の物を買ってこなかった、という残念な言葉だった。

あなたは大学まで出してもらって仕事もそこそこに看護学校に入り直して、親からどれだけお金出してもらっていると思っているの、こういうときにちゃんとお返ししなさい、など、親としてのもっともなことを沸々と怒りながら返してきたのである。

コーラスのお友達の目もそうだーそうだーと言っていた。

そういわれて、そうか、そういうものなんだな、お金ってそう使うものなんだな、と教えられたワンシーンがあった。

母は自分で友人を訪ね大地から咲くラベンダーを手にとって香りをすいこみたかったんだな、と後になって気が付いた。

思いやりって難しいな、と。

 

学校がまとまって休みの時は帰省をして病院へ会いにいったが

彼女がこぼすいろんな気持ちや事柄が、その時の私にはどうしても受け入れがたくて本気で言い争うこともあった。

死について話すときもどこか他人事で、ここにいてそこで話して、そういうシンプルなことを伝えられない受け入れてもらえないという苛立ちもあった。

どこまでも、子供だった自分。母であってほしかった自分。

あんたと話すの疲れるわ、といわれてからますます足は遠のいた。

 

 

母の病気が進行するのと並行して父の身体症状も進んだ。

手足が動かしにくいのを頸椎のせいにしてマッサージに通っていたが、パーキンソン病だったということもわかり、父の生活をどうするかということのほうが(母が亡くなった後も含め)姉からのいつもの電話だった。

メインテーマは母への気持ち。と、いかに看病と介護負担が自分にかかっているかという怒りだった。

姉の言うことはいちいちごもっともだな、ということと、どうしたらそこまでエキセントリックに考えることができるのか、という不可解に満ちていた。

 

 

体力がまだある52歳、母は少しでも可能性のある治療を受けることに貪欲だった。

金沢大学まで治療の可能性があるかもしれないと介護タクシーで向かって受診もした。

そのとき初めて痩せこけた母のからだを見たが、シミではない巨大なほくろに全身覆われていた。

これが母を辛くさせる元凶か、とそのあまりの多さに絶望した。

 

孫が小学校までに入学する姿を見たい、と目標もはっきり口にしていた。

実際、なにをやっても体力がおちて元気な細胞がたたかれていくいっぽうで

加療のたびに疲れ果て痩せていった。

 

病院でできることはありません、というので冬には家に帰ってきた。

よたよたしつつ母と父の二人生活がほころびながら始まって。

しばらく一緒にいたけれど、出血がなかなか止まらなくなっており、歯磨きもおちおちできなくなっていた。

夜中でも、日に日に動きが鈍くなっていく母、心配してゆっくり眠ることもままならない父、家族でささえるには限界だった。

父親に準備しはじめたヘルパーさんの導入は母には使えず、また他人に家に入ってもらうことに抵抗がまだ残る時代でもあり年代でもあり、地域性でもあった。

 

そろそろ私の冬休みももう終わり、東京に戻る日が翌日に迫っていた。

いつまで母がうごけるかわからない、姉もすぐにはうごけない、こまごましたことを整えられずにいた私も両親を置いていくのが心配だった。

私は母に入院するか、と聞いた。自分の安心のためでもあった。

母は「家にいさせてよ、ここにいたいんよ」と

はっきり泣きながら言った。

 

私は言葉を失った。

在宅看取りというテロップが流れていったがむなしくもなすすべ無しだな、という脱力感しかなかった。

 

 

富山空港では天候不良で飛行機が遅延していた。

家に電話したら母がでた。

「そうなんけ、しばらくまっとるしかないね。大丈夫だから。気を付けて帰られ」

と今まで通りの会話をしたのが最後だった。

 

 

母の危篤は実習先の病棟で呼び出され知らされた。

新幹線で向かう途中、姉が電話で母とつないでくれた。

 

血が止まらんから昨日入院したんよ、手も足もパンパンで、でも午前中まではばあちゃんとも話ししとったんよ、でも返事がなくなって、先生が(私を)呼んだほうがいいって・・・ お母さんの耳に電話あててるから、しゃべられ・・

早口の姉がもっと取り乱してさらにまくしたてていた。

よびかけてももちろん母から返事が返ってくることはなかった。

 

 駅から病院までのタクシーで、運転手さんにお見舞いですかと尋ねられ

母が危篤なんです、とだけ言えた。

 

個室に寝かされていた母は点滴や尿の管、心電図モニター、あらゆるコードがついていた。

ぜーぜーと大きく呼吸する以外は何も意識的な動きはなく姉が縋りついて泣いていた。

父は部屋の隅っこの椅子に腰かけ、来たんか、とだけ私に声をかけた。

母の兄、叔父さんか、近所の人だったか、はっきり覚えてないけど、ほかにもだれかがいてくれた気がする。

 

モニターの音がフラットになっては復活し、緩やかに遠のいていくのが科学的にはっきりわかるようになっていた。

弱くなるたびに姉が母に呼びかけ、叫び、呼び戻していた。

その絶叫を聞いているほうが苦しかった。

 

二人いた主治医のうちの一人が「もう逝かせてあがてください!」と突然言った。

姉がぴたりと動きを止めて、しばらくして母からの電気信号はまったくなくなった。

 

私たちは少し泣く時間が与えられ、死亡確認があり、夜中なのに看護師が二人きて体をきれいに整えてくれた。

でも寝間着は病院の貸し出しの物だった。

もはや見慣れ過ぎていて、それを返却しなきゃならないのかどうかということにも頭が回らなかった。

 

大きめのバンがきて全員で乗り込んだ。夜勤のスタッフが頭を下げて見送った。

猛吹雪の深夜、冷え込んだ実家に母は帰ってきた。

葬儀屋がてきぱきと事務的なことを進めていく。父と姉がはいはいと決めていく。

姉は葬式までの間毎晩母の隣で眠った。

親戚といとこが納棺をしてくれた。

燃やされる最後まで母は寝息をたてて眠っているようだった。

ばあちゃんが一番憔悴していた。

発病から10か月余、必ず毎週一回、時にはそれ以上、母を見舞いにきてくれていた。

どこに出しても恥ずかしくない自慢の長女をまさか自分が見送ることになるとは、

おばあちゃんのことを思うたびやるせない思いに駆られた。

 

葬儀ではコーラスの仲間さんたちが、美しい涙声で歌って見送ってくれた。

 

火葬が終わって

私はずっしりと重い骨を抱いて車に乗った。

 

 

あとにもさきに、こんなにつまらないと思ったことはない。

私はどこにも居場所がなくて、つまらない、なんてつまんないんだ、と

独り言を言っていた。

 

 

 

 

父や親戚がかばってくれたので、一週間の忌引きを終えて学校に戻った。

 

実習やテストが中途半端におわっており、私は春休みに追試と追実習をしなくてはならなかった。

日ごろ話すこともない、出席日数が足りないような同級生や進級できなくてダブった同級生らとにわかグループを組んで実習。

めっちゃコミュニケーションとりずらい。そして普段よりも実習厳しい。

春休みで寮は閉鎖。神奈川県の叔母宅から通学。片道1時間以上の満員電車。

貫徹で乗り切ったレポートを出しフラフラで打ち上げ。

中央林間と渋谷を2往復して 終電の最後におこされて帰宅。

テストは8割掛けでギリギリの得点でパス。落第を免れた。

 

母を失った悲しみ? なにそれ? 

目の前のことをやっていくだけで必死だった。

 

そこから本当に短い休みがあって、私は長かった髪を金髪パーマにして一人旅をした。

 

どこにもいきたくなかったけど、どこかにいかなければならなかった。

 

 

 

 

3年生になって国試への勉強と実習の毎日が待っていた。

 一日も早く働きたいと思っていた。

そのために必用な学習への意欲は全く出てこなくて何度も職員室に呼びだされた。

 

姉からは、実家にもどり地元で就職し父の介護をしろと

彼女のあいている時間になんどもなんども電話がかかってきた。

 

 

申し訳ないんだけど、これだけは譲れないの。

譲らなかった。

 

 

そんな私を父は「あいつは頑固だから」と笑った。

 

 

 

譲れないのは、私が私を消す直前につかんだ夢をまだみていなかったから。

私がわたしであるうちにこの夢を叶えたい。

 

 

 

みなさんごめんなさい。

これを譲ったら私はもうここにいる意味、ないんです。

 

 

おかあさん、

きっと私が戻ってお父さんをみていたほうが安心だっただろうね。

 

どんな一生だったんやろ。

 

知らなくてもいいことっていっぱいあって、これはそのうちのひとつ。

 

 

 

こんなわたしに産んでくれてありがとう。

 

 

 

 

セルフグリーフケア ④

平成9年2月12日 父の父である祖父がなくなったのは94歳になる直前だった(かも。)

 

どういう経緯で祖母と出会い婿にはいったのか、

戦争をくぐり抜け妻の家業の呉服屋に従事することなく勤め人として仕事を納めた。

 

私が物心ついたときは祖父は茶の湯を趣味とする頑固な老人であった。

満面の笑みで大泣きする赤子の私をだっこする祖父の写真が記憶の中だけにある。

その写真でもすでに祖父の手は節くれごつごつと乾いたものだった。

運動会は私がリレーの選手のときしか来なかった。

負け試合を見るのがいやで必ず勝つ試合だけ見たいんだと母に話していたという。

そのときの写真もすでに杖を手にしているからすでに老いた存在だったんだろう。

いや、亡くなる一年前まで自転車に乗っていたし、健やかに老いた、というべきか。

 

私は小学校4年生のころから大学進学で家を出るまで祖父と一緒に暮らした。

生家ですごした9年間のすべてのシーンに祖父がいた。

 

登校拒否をしたり、暴力行為をうけ私がふさぎ込んでいた時も

覚えていないけどきっと祖父はマイペースな毎日を過ごしていた、少し気にしていてくれただろうけど。

 

禿て髪がないのに毎月床屋にいっていた。

近所の銭湯がすべて廃業するまで週に2,3回は外湯を楽しんでいた。

相撲と巨人が好きで、ひいきが負けた時の不機嫌ぶりは迷惑そのものだった。

年々早寝早起きが進んで、19時消灯2時起床

たまに深夜に家事をしていた母とおはようお休みを言うこともあったとか。

起きてから家の階段や廊下のモップかけ、玄関の掃除に植木水やり、仏間でスクワットなどの独自に編み出した筋トレと青竹ふみ、お湯をポットにいれ、ゆっくりと抹茶を3煎たてて飲んでいるころに夜が明けてくる・・

 

祖母との喧嘩も派手にやっていたがいつもぶつぶつ文句を言って敗北していた。

一度だけ父と喧嘩した時のことはとてもよくおぼえている。

早世の叔父のことをはなしていた時だった。

だいぶお酒が入った父に祖父がガツンといつものとおりに言いはなった。その言葉にかっとなった父が猛反撃。食卓はシーン。父の横でご飯を食べていた私は怖くて泣きだした。姉がギャンギャン何かいっていた、お前泣くな、まで言われた。母がなんとかその場を収めていた。

そのあと仏間で父が泣いていた。叔父のことを思ってないていた。

そのことを思いだすと息が苦しくなる。なんで死ぬことにまつわるとこうなるんだ。

避けられないんだったらしかたないじゃないんだろうか

どうしてここまで死んでない人があらゆる部分を削がれてゆくのか。

みんな死ぬんだ、でもここまでくたくたになるまで死ぬを引っ張らないでもいいんじゃないだろうか。

 

 

小さな小さなわがやという世界の中に疑問符が渦巻いていた。

 

 

 

子供から大人の入り口に至るまでの時期を祖父とすごしたからか

こまかい思い出が数え切れないぐらいある。

今にして思えばそういう受け皿が祖父だったんだと腑に落とせることもたくさんある。

ただただ、楽しかったなあ、ありがとうって思う。

 

 

身の周りのことができなくなって、ナーシングホームのようなところに入った。

高血圧以外はとくに大きな病気もなく、老衰、というごく自然なながれだった。

どこに出しても恥ずかしくない嫁だった母にとっては

屈辱と安堵の混じった終の棲家への移動だっただろう。

 

少しやりとりができなくなってきてから、眠る時間が長くなって

ある晩そっと一人で旅だっていったときいた。

私は次の人生に向けて走り始めた時だったから、穏やかだった祖父の最期を聞いてとても安心した。

だれもが口にした大往生の意味をかみしめ、私も全力で生きるんだ、と誓った。

 

 

予想された死の準備は万端で

くる人たちは皆優しい涙で見送ってくれた。

 

なんていうんだっけほら、そう、こういうのを予定調和、っていうか。

采配がゆだねられた時にこそ完璧に限りなく近い輝きをみせるんだろう。

 

 

どこにも無理がかからない

生まれて死ぬ、当たりまえのながれを当たりまえにできる

そういうのっていうのかなー

 

 

 

 

 

セルフグリーフケア ③

父の母、祖母はカッコいい人だった。

 

お嬢育ちなのに分家し家業を継いでからは苦労の連続。

保証人になったばっかりに身ぐるみはがされ路頭に迷ったこともあった。(とか。)

 

新しいものが好きで、派手なものも変なものも構えずに家業へも取り入れていたので

ついているお客さんには絶対の信頼を得ていた。(とかいないとか)。

あまりに美人だったからもててもてて仕方なかった、

見合いの話はひっきりなしでお断りするのが困ったほどだった、など武勇伝は数知れず。

(実際、おしとやかな祖母の妹が帰省した時は近所の男性が何人も顔を見に訪問してくれていた。モテモテは妹さんのほうだったんじゃないのか??!)

 

8月7日生まれ、しし座の彼女のお話はちょっぴり大盛のときもあった。

そういうおちゃめな明治女だった。

 

商売人だったので家のことはとにかく最小限の手のかけよう。

食事は向いの魚屋さんで買ってくることがほとんどで、父はどうしても母には専業主婦でいてほしかったと。

祖母の手料理、というものを食べた記憶はあまりない。

母親業の役割が彼女の分担ではなかったんだろう。

でもお手伝いさんを雇うほど裕福ではなかったので、それなりに家事をしていたんだろう。

いつも祖父とは喧嘩が絶えなかったが6人の子供をもうけた。

 

のれん分けをして3代目の呉服屋だった。

色の明暗・光彩、組み合わせの妙、季節に応じた素材選択、

人の肌色に応じて見分けて選ぶことはずば抜けて目が良かった。

ピンクぽい色白の姉にはいつも柔らかい桃色の着物を

ざっつ黄色人種でみかんばっかり食べている私にはからし色を

またそれがぴったりとはまる。

 

 

お着物の雑誌を見ながら夜更かしして帳簿つけ。

それがいつの間にか針を片手にテレビでフィギュアスケートをみるのが習慣になり

なぜかボクシング観戦をこよなく愛した。

 

美とファイトが同居する着道楽を生き抜いた祖母だった。

 

大腸がんが見つかってから入院、お看取りまでは駆け足だった。

 

 

高校受験が終わった中学の消化授業を受けているとき学校で呼び出しがあって、おばあちゃん亡くなったんだって、と。

古いパイプのベッドで祖母は静かな時間を迎えていた。

 

病院にお見舞いにいったのも数えるくらいだったが、ほとんど覚えていない。

そのときに、息子である父がどうだったとか、

夫である祖父がどうだったとか、

周りの親戚たちがどうだったか、なにも覚えてはいない。

 

その時の気持ちも、印象にまったくのこっていない。

なんて不思議なんだろう。

何十年も前のことだけど、私はこころから私のことだけに集中していたに違いない。

 

祖母の厳しいしつけと不文律の家訓。

暗黙の恐怖政治だったけど、そういうものだと思っていた。

おかげで横道それたらいかんな、ということだけは身に染みて育った。

5,6年一緒に暮らしただろうか。

 

祖母がいなくなってさみしくてたまらない、というよりも

おつかれさーん、というさっぱりした言葉が似合う。

 

楽しい思い出ありがとう、ばあちゃん。