父の母、祖母はカッコいい人だった。
お嬢育ちなのに分家し家業を継いでからは苦労の連続。
保証人になったばっかりに身ぐるみはがされ路頭に迷ったこともあった。(とか。)
新しいものが好きで、派手なものも変なものも構えずに家業へも取り入れていたので
ついているお客さんには絶対の信頼を得ていた。(とかいないとか)。
あまりに美人だったからもててもてて仕方なかった、
見合いの話はひっきりなしでお断りするのが困ったほどだった、など武勇伝は数知れず。
(実際、おしとやかな祖母の妹が帰省した時は近所の男性が何人も顔を見に訪問してくれていた。モテモテは妹さんのほうだったんじゃないのか??!)
8月7日生まれ、しし座の彼女のお話はちょっぴり大盛のときもあった。
そういうおちゃめな明治女だった。
商売人だったので家のことはとにかく最小限の手のかけよう。
食事は向いの魚屋さんで買ってくることがほとんどで、父はどうしても母には専業主婦でいてほしかったと。
祖母の手料理、というものを食べた記憶はあまりない。
母親業の役割が彼女の分担ではなかったんだろう。
でもお手伝いさんを雇うほど裕福ではなかったので、それなりに家事をしていたんだろう。
いつも祖父とは喧嘩が絶えなかったが6人の子供をもうけた。
のれん分けをして3代目の呉服屋だった。
色の明暗・光彩、組み合わせの妙、季節に応じた素材選択、
人の肌色に応じて見分けて選ぶことはずば抜けて目が良かった。
ピンクぽい色白の姉にはいつも柔らかい桃色の着物を
またそれがぴったりとはまる。
お着物の雑誌を見ながら夜更かしして帳簿つけ。
それがいつの間にか針を片手にテレビでフィギュアスケートをみるのが習慣になり
なぜかボクシング観戦をこよなく愛した。
美とファイトが同居する着道楽を生き抜いた祖母だった。
大腸がんが見つかってから入院、お看取りまでは駆け足だった。
高校受験が終わった中学の消化授業を受けているとき学校で呼び出しがあって、おばあちゃん亡くなったんだって、と。
古いパイプのベッドで祖母は静かな時間を迎えていた。
病院にお見舞いにいったのも数えるくらいだったが、ほとんど覚えていない。
そのときに、息子である父がどうだったとか、
夫である祖父がどうだったとか、
周りの親戚たちがどうだったか、なにも覚えてはいない。
その時の気持ちも、印象にまったくのこっていない。
なんて不思議なんだろう。
何十年も前のことだけど、私はこころから私のことだけに集中していたに違いない。
祖母の厳しいしつけと不文律の家訓。
暗黙の恐怖政治だったけど、そういうものだと思っていた。
おかげで横道それたらいかんな、ということだけは身に染みて育った。
5,6年一緒に暮らしただろうか。
祖母がいなくなってさみしくてたまらない、というよりも
おつかれさーん、というさっぱりした言葉が似合う。
楽しい思い出ありがとう、ばあちゃん。