together with global breathing

mabulの光翠、こころが動いたことを綴ります。 永遠に地球が平和でありますように。

セルフグリーフケア ⑥

平成25年4月16日

春の兆しもまだ遠い、雪の残る田畑がひろがる姉の嫁ぎ先で父は亡くなった。

 

妻を亡くした夫は寿命が短くなるという統計をまずまず裏切って

父は母が旅立って13年生きた。

男性の平均寿命にもやや届かなかったけれど、

パーキンソン病胃がんを持ちながらも頑張って生きてくれた。

 

ゆっくり進行する症状にあわせ、父の生活全般は姉が姉の希望で一手に引き受けていた。

退職し、妻を見送り、しばらくは一人で過ごしたが、家の改造や姉のサポートなしでは父は家で過ごすことはできなくなっていった。

 

都内の看護学校を卒業し大阪で仕事を始めたわたしはいわゆる何もしない使えない娘で

父に勘当された姉に勘当されたり、家族の生々しい思いだしたくないことが何年も続き責められ続けた。

そのたびに自分のなかも意固地により固くひっこんでいくのもわかっていた。

 

いつのころからだろ、

聞いたこともないひどい言葉や嫌み、一方的な思い込みに、もうどうでもいいや、って思えたのは。

 

ほんとにどうでもいいと感じはじめて、嫌なことはあったけど覚えていないようになった。

幸せな方法を身につけたんだろうな。

よかった。

 

だから、思いだせる父のことを書いておこうと思う。

そう思うと切ないけどうれしい。

 

 

 

 

父は次男で生まれたけれど戦争で兄を亡くし次男長男として両親をささえた。

幼稚園がつまらないと抜け出して一人で川遊びをしてしかられたり

おもちゃが戦火でなくなったときの話をしてくれたり

大学時代は仲間と車で北海道一周をしたり、片足を骨折してもそのままスキーを満喫して就職を逃したり

新聞記者になりたかった、といいつつ製薬会社で勤め上げたひと。

何十回と見合いを祖母にさせられて、30までは結婚したくないと逃げ続け

大阪に団地をかってやるから、この人と結婚しろ、ともってこられたのが母だった。

母にとっては初めての見合いに徹夜でマージャンをやったその足で遅刻してきた父をみて、この人はなんてよく食べる人だろう、と初対面のイメージを語ったことがある。

父はがつがつご飯を食べてちらっと母を見ただけでお見合いは成立した。

いい時代だった。

 

姉が赤ちゃんのころ父のポケットに入っていた煙草を飲みこんで救急車で運ばれたことがある。

それ以来ぴたっと煙草を吸うことはなくなった。

だから私の記憶の父は大酒のみで麻雀とキャンプが好きな父しかない。

頭の回転が早くてジョークばかり。職場の仲間とよく登山にもでかけていた。

近郊の山に家族を連れていったが私はその山道が辛くて文句ばかり言っていた。

背が高くてひょろっとしていた父を、ひそかに母は絶賛していた。

私は小4まで父の背中に張り付いて甘えていた。

父が一度だけ会社の運動会に私を連れていってくれたことがあった。

知らない人だらけなのに、人見知りもせずあれこれと競技に出てお菓子や文房具をもらった。

夕やけの中、父に手をひかれ帰った記憶がある。 

 

単身赴任生活も長かった。一人暮らしの父の団地に行ったことが一度あった。

ごちゃっとしながら父なりの法則で整理しているということだった。

その時はさらに痩せていて、母はいつも心配していた。

 

仕事し始めたら一生働くんだから、学生の間は働かないで勉強しなさい、と、バイトは禁止され仕送りをしてくれていた。

それも申し訳なく、バイトをしながら過ごした時期もあったが、いつも食べるものに困らないように、と気を配ってくれていた。

 

一度だけ、母と父と、3人で立山に登ったことがあった。

父の体が少しずつ不自由になっていて、母がかばいながら寄り添ってゆっくりあがった。

私を見失うまいと首に巻いていたピンクのタオルを目印にしていたんだ、などやっとの思いで登頂し、ワハハと笑った。

動きが鈍ってもとても楽しそうにしていた。

私も3人で出かけたことはほとんどなかったので強く印象に残っている思い出。

母はお世話できるのが幸せそうだった。

 

難病で不自由になってからはたびたびしか会いに行っていなかった。

でも顔をみたら喜んでくれていたのは伝わってきてさらに申し訳なくなった。

肺炎になって気切したり胃瘻をつくったり意識が落ちたり

緊急に入院したときには呼ばれて行くこともあったが、そのたびに意思の疎通が難しくなっていった。

 

 

私が父にかかわったのは亡くなる前の3か月間だけだった。

姉が、くたびれた、もう見れん、私の人生を生きたい、と言った。

私は12月で仕事を辞め、1月に名古屋の緩和ケア病棟に入院した父のところへ数日の泊りを決めて毎週通った。

言葉ははっきり出ることはなかったが、歯磨きをしたり、マッサージをしたり、そばで読書をしたり、できるだけ話をした。

私は父と二人の時間を心から感謝して過ごした。

 

 入院が三か月になると転院を勧められるのが常識で

姉も悩んだ結果また父を自宅へ引き取ることにした。

先の見えない介護に、どれほどその決断に勇気と覚悟が要っただろう。

 

そして年金支給日を一日過ぎたあと、家に帰って2週間足らずで父は旅立った。

 

 

 

そのあとのことは、激しい感情が嵐のように続く毎日で思いだせない

 

思い出さなくてもいいようにしよう

 

思いもかけないことばっかりで

 

 

大切に育ててもらったこと、ほんとうにありがとうございました。