平成27年8月26日
義兄とのコミュニケーションはもっぱら雰囲気だった。
コーマワークといってもいいかもしれなかった。
でも、一対一で対話する機会はないままだった。お看取りの数週間前までは。
親戚から聞いた彼について。
小学校にあがるぐらいからか、転ぶような感じが続いて、バランスがとれなくなり、歩くのが難しくなっていった。
原因はわからない、病名もはっきりしない、ただ自立して歩いたり明確に話すことができなくなっていった。
企業戦士だった父は日本中、時には海外まで飛んで日本経済高度成長に貢献した年代の人だった。
ゆえに看護師だった母が彼を全力で育てた。可能な限り自宅から学校へ通った。
彼の世界がベッドの上で生活を終結するようになるまで時間はそうかからなかった。
叔母さんからうながされて彼の食事を胃瘻から注入したことが一度ある。
不思議な気持ちだった。
母が亡くなり、遺言の「私が死んだら施設へ預けて」には従わず
父が高齢で自宅介護ができなくなるまで家で過ごした。
父は毎日お見舞いにいった。
さみしい思いをしないように、ね、と。
父が亡くなり、父の恋人が父に代わりお見舞いや洗濯のため面会に来るようになっていた。
そんな春先から、原因不明の発熱を繰り返すようになった。
夫が面会にいくと少し回復する、というペースで原因がわからないまま抗生剤の点滴を使ったりしていた。
夫と交代で面会に行った。
ゆっくり手足を伸ばしたり、気になるところを拭いたり、オイルマッサージをしたり、お邪魔にならないようにできることをやっていた。
意識が行ったり来たりしている感じはあってもお話は聞いてらっしゃるなあ、と雰囲気でなんとなく。
もう逝くことを考えているんですね
さみしい思いもあったり、でもけしてこちらに強要しない
引き取って見られないことへの罪悪感など全く感じさせない
お義兄さんの、一番いいタイミングで、決めてくださいね。
その声かけが最後で、お答えが命日だった。私たちの入籍日だった。
55歳。
どんな毎日を、どんな風に感じて、ここで終いにされたのだろう。
計画されてきたこと、まっとうなさったんでしょうね。
穏やかな時間を最後にくださってありがとうございました。