together with global breathing

こころが動いたことを綴ります。永遠に地球が平和でありますように。

6月活動報告@南阿蘇+益城福祉仮設

水無月 

入梅の声をきいてからの空梅雨はこの数年の傾向かもしれない。

蜂の巣もすぼめ気味・・

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今月はセラピスト3名の参加で37名の方を施術。

阿蘇にある大きな仮設住宅は6か所あり、そのうちの2か所を訪れることができた。

また、個人的に繋がっていただけた益城町の福祉仮設でも実施。

 

ボランティアの波がひいていってから、いそいそ仮設デビューするのはやっぱり出遅れた感があるのと、今更なにを~という感じを勝手に想像。

ボランティアの受け入れにお疲れでは無いだろうかとか、へんな人と思われないだろうかとか、頭で考えることにも疲れてしまい

とりあえず行ってみよう、と最後は開き直って出向いた。

 

先月に引き続き、長陽グランド仮設。

ほぼ予約は埋まり、継続してくださっている方のご様子もうかがえることができた。

翌日に住宅再建の相談会があるとのことでみんなの家には椅子や机などを搬入する方が出入りしていた。お構いなしでマッサージをしていたら、その方がたもしてほしいなあ~と。ということで5分ほど肩だけトクセン。これだけでも劇的にコリが取れた!と喜ばれる。

また、プリンターやpcの調子を見に来た電気関係の方にも肩だけトクセン。たった5分でもこんなに腕も肩も楽になるのです。

こんな反応良好でこちらもめちゃめちゃうれしい。

 

マッサージができるかどうか未定のまま伺ったのが陽の丘仮設。

自治会長さんの了承がないので、みんなの家では実施できず。

なのでご希望のあった方のお宅で行った。京都畳で4.5畳?と思うほどの広さだった。

この一年のこと長屋暮らしの厳しさ、などたくさん話して下さった。

 

益城の福祉仮設は、個人的な紹介というご縁で。

「まず、すわって」と椅子をすすめられた。

そして、どういう目的でマッサージをしているの、と問われた。

確かにどこにも所属がなくて誰に支持されるでもなく動いててそれも無償で?なんて怪しい情報だ。

できるだけ簡潔に自己紹介と活動のことをお伝えした。

視力がかなり低下されているので、こんな見ず知らずの者を家に招くのも勇気がいることに違いない、当たり前の質問で、なるべく丁寧に話した(つもり)。

疑うわけではなく、マッサージの後に何か買うのか、などそういうこともあるしほかの方にご紹介もできないでしょ、とおっしゃられた。そういうこともあるのか!?

被災地をビジネスにする輩もいると聞いたことはあっても・・・驚きだった。

とりあえず、うっすら信用を得られたとあり、マッサージをさせてもらえた。

おかげさまで同じ長屋住まいのご夫婦宅にもお邪魔できた。

福祉仮設は6戸だけで、公民館のようなものはない。

最小限のバリアフリーのスペース、駐車場、掲示板、のみが住宅街のど真ん中にいきなり存在する。

お部屋は初期のころに建てられた仮設より広く、間口も大きい(車いすが十分通れる)。また木造ですこし雰囲気は柔らかい。

住民同士の交流はまだ活発ではないとおっしゃる。

みなさんが抱える福祉テリトリーの事情は、気軽に交流することへの見えない壁になっているのかも。

 

今回は新しいこころみと出会いがあって、つなげていければ、と強く願った。

 

 

 

 

 

 

 

 

以下、個人的なこと。長いのでスルーで。

 

マッサージに出向くようになり一年。

私にとって一年がすぎた。

 

駆け足の活動だったようにも思うし、まだ一年ってかんじることも。

ほんとうにたくさんの方々に支えらえているということ、

ひとりでは何もできないけれど、繋がることやこころをこめて伝えることで、

思いもよらぬことができてしまったりする、

そんなことを体験を通して思いしることができた。

 

災害の時に、そのあとに、どのような経過を踏んでいくのか、

遠くにいながらもわたしなりに感じることもできた。

その場に立つことでひしひしと伝わるパワーとあちこちから入ってくる情報。

新聞ではけっしてかかれないこと。きれいなことばっかりではないこと。

誰にも見てもらえないけれど、小さな積み重ねが実を結んだこと。

すぐ手の届くところに、欲しかったものがずっとあったということ。 

 

思いがけないことは、「ボランティア」ということに対する認識を再確認できたこと。

自分のこともだけれど、自分以外が思っていることも。

 

 私にとってはやっぱりボランティアは私のためにしていることだった。

これやりたいなあーどうかしら?、OK!やってよ、というだけだったこと。

とっても個人的なことだけど、こつこつしてるうちにどんどん参加してくれる人が増えていって、そのうち時間も労力も物もお金も、そして温かい気持ちも集まってきて。

みんなすごいー!の一言。

助かっちゃった~、ありがとう!わし、本当に楽しんでいるの。

言葉が足らないしうまく説明はできないけど、自分のためにしている、だけなんだなあと。

このマッサージがあってもなくても何も変わらなかったかもしれない。

でも確実に言えることは、

私は一年前よりもトクセンもマッサージもうまくなったし、熊本のことも少し知ったし、熊本の人々のことも少しわかるようになったし、日本中からやってきたいろんな活動をしている人たちと多少なりとも交流し、お互いのことを知り合うことができた。

エネルギーワーク、ボディワーク、カウンセリング、どれをとっても新しく出合うことにこんなワクワクしている自分がいた。

そして関わった人のフローを直接でも間接でも見つめてこられたということ。

みせてもらえたということ。

 

もうひとつ、どうしてもご縁でしかなかったということ。

地震の前年に訪れていた、だけのことを縁にしたのも自分。

ここで関わらなければだめだ!となぜかファイトしたのも自分。

自分に約束したこと、一年は守ってきたんだー。素直にうれしい。

 

 

こんなしつこくつないでこれたのは、多くの協力があったから。

その協力の一つは、熊本、という場だった。

地震の原因でもある大地は、ずっと変わらず恵みを与え続けてくれていた。

どんなにへとへとになってても温泉に入ってお水を飲んで、獲れたての野菜をかじってたっぷり眠ったら不思議とまた元気になっていた。

ふかぶかと眠っている闇夜にはみたこともない星空がひろがっているんだろうな。

朝日がやってきて、あたりまえに夕日に変わっていく空、

田畑を潤す水脈と自由な風を全身で感じながら

すみずみまで健やかに支えてもらえたのはこの場であったからこそ。

 

このまま大地になってここであまたの命の巡る様を見守っていきたい、そう心から思った。

 

 

愚痴をきいてくれる友人がすぐそばにいてくれたことも大きな支えだった。

マッサージ以外の深い闇もシェアすることができて、私は本当に幸せだった。

同じだけマッサージをして家事もして、買い物も、掃除も、車の運転はすべて。

朝の散歩にも毎日つき合わせ、急な私の欠席にも動ぜず引き受けてくれた。

ずっと甘えっぱなしだった。

さぞや大変なことに巻き込まれたと思っていただろうな。

家族のようにすごしてくれてありがとう。

一人ではなくて心強い毎日だった。

彼女なくしてこの継続はなかった。

ℱさん、ほんとうに、ありがとう。

 

 

 

私以外の人が感じてるボランティアっていうことにもいろいろ聞けておもしろかった。

ボランティアは偽善で、そういうことが世の中をダメにする、くらいすっぱり言われたのも目からうろこで。

自分のことを一生懸命するだけでそんなことする必要なんてない、ということらしい。

 

ボランティアは誰かのためにしていることで、自分のことをほったらかして他人のことを構うなんて、偉いわね、すごいわね、っていう感想。

 

ここ最近、とくにかけられることばは「ありがとう」。

とても素敵なことだまなので私も常に連発なのだが

マッサージした人以外からかけられることにはいつも疑問だった。

 

 

いろんなひとがいるのだから、いろんなとらえ方があるので

そういう風におもっているんやなあーということがおもしろいことだった。

 

 

 

 総括ではないけど

変わらない私の中の真がさらに強化された気がした。

あんまり頑固になってしまいたくないから

はんなり強化されたっていうか・・・

 

それは、自然とともにいないとズレていってしまうんじゃないかってこと。

熊本で人に触れ合っていると

いかに東京での触れ合いが緊張をはらみ何か追い立てられているようであるか

また、何かみられているような、なにか届かないままでいるような、そんな不燃焼な印象であるかがはっきりわかってくる。

どこか大切な部分を明け渡し、なにか不必要なもので埋めつづけおかしくなっているというか。

不健全性、というものは当初から感じてたことだったけれど

そのひとの健やかさってどこにあったのか、ひも解いていくのにとてもとてもエネルギーを使っていることにも気が付いてきていた。

何が良い悪い、という単純なことではないので説明もうまくできない。

東京以上に大都会が故郷の人だっている。

そういう人はネオンを見ると故郷に帰ってきたってホッとする。

 

こう考えている自分がぶれているからだろうか、ってなんども振り返るけれど

ブレていても変わらないものは変わらなかったから

なんだか奇妙、でもこれが私も感じてることなんやって。

 

 

圧倒的な自然に中にいると、自分に正直でいないとやっていけなくて

それが怖かったり苦しかったりする人もいるだろうけれど

ただの自然の一部でいさせてもらえる安心感

わたしはあの崩れた土砂だったかもしれない、なんていう無常さ

 

そういうことを感じていたころのことも思いだしていた。

 

 

 

 

 熊本にはもう少しマッサージにいきます。

 

皆さまにいらんって思われるまで、というと長いかな。

とうぶんは。