イスラム教における神アラーと一体化するための祈りと踊り、清貧と高潔。
スーフィーは多くの詩を書いている。
その中の一節に「死ぬ前に死ね」とあった。
過酷な修行が美学とされる流派もあるなか、生きながら死ぬ覚悟を問うたものか。
ひたすら神と合一のために物理的な我欲を捨て行にいそしむための言葉か。
生きながら神に限りなく近くなることが生まれてきた目的なのだろうか。
物質のまま概念になることが誓願であったか。
スーフィズムについてはちょっと本を読んだだけしか知らない。
こねくり回して考える要素も持ち合わせてはいない。
仏教では死ぬ前に死ぬことができる。
人が亡くなったときにお坊さんが呼ばれて、すべての人に戒名を授ける。
その時に得度をさせ、あの世に渡らせるため新しい名前を与える。
この世の俗名を捨て、新たなる旅路のために。
生きている間に得度をすることで現世の名前を捨て彼岸に渡る。
そして戻ってくる。新しい名前で。
この世の衆生を救うために。
これぞ大乗仏教の醍醐味。
肉体をもって菩薩行にいそしむこと、
肉体をもって死んだあとの生きている間にしかできないお役目。
スーフィズムの起こりは8世紀中ごろとのこと。
大乗仏教が仏陀の教えの拡大解釈といわれつつも広がったのは紀元前1世紀。
密教に近づいていくのは6世紀すぎといわれている。
何が本当か
かくも複雑なこの3次元世界。
どんな生き方だっていい。
そして物事の定義はなんだっていい。
死んだ気になれば、たいていのことはできそうな気がする。
明日の生が約束されないときにこそ
本気で生きることができるのかもしれない。