together with global breathing

こころが動いたことを綴ります。永遠に地球が平和でありますように。

ボラ活その後②

中野市芍薬は日本一の生産量。

そこの泥かきボラを最終日の午後に行って、

農家の方にお花のあれこれを伺うことができた。

GWが見頃だからおいで、と言われ次の年が楽しみだった。

でもすっかり農地がどこかわからないままだった。

ボール大に育った30年物の球根は深く泥の底にあり、

素人ボラは鍬でたたき割ってしまうこともあった。

農家の方がその割れたものを分けてくださり

東京の乾いた空の下で植木鉢から芽を出したときは歓声を上げてしまった。

大きなままの球根からだったら大輪の花をつけただろう。

その花畑に立ちたいと願っていた。

 

それから3年経って、農地の場所もわからなくなっていて

季節に花を買い求めることで思い出を愛でていた。

 

地元で知り合った方がボラの写真から割り出した場所に連れて行ってくださり

ついにその芍薬畑を訪れることができた。

夏の終わりごろ、お花の影はなくてもその場を確定することができた。

青々とした葉をたたえ芍薬たちはすくっとそこにいた。

きっと来年も咲くだろう丈夫な茎。

大いにその雄姿に励まされる。

じわっと嬉しさがこみ上げる。

 

隣のリンゴ畑の方に芍薬畑はどなたの持ち物か尋ねた。

お名前は特定できなかったけど、きっと来年の5月に来れば会える。

そんなふうにワクワクしていた気持ちが

急速にしぼむ知らせをその方から聞くことになろうとは。

 

「(ビニール)ハウスの(芍薬)は枯れた。除草剤をまいた。」

「何度も水に漬かって。(芍薬農家を)辞めるんだよ。」

 

千曲川の川べりは自由に作物を育てていい。

けれど災害があっても保証はない。

何度も氾濫を繰り返して土壌は豊かになるけれど、

それを生業にしていくことは大変なご苦労。

 

ボラのときに仰っていたことば。

いつまでできるかわからない、

果樹よりもボラの手を回してもらえることもないしね。

(その時は果樹が終わって手があったので芍薬畑に回った)

 

 

ハウスを見に行った。

破れたままのビニールから覗いたのは茶色く崩れ落ちた姿。

 

 

物事の始まりには終わりが来る、どうしようもないことはあるけれど

この子たちの一番誇り高い雄姿を一目見ておきたかった。

 

勝手だけど悲しかった。