平成9年2月12日 父の父である祖父がなくなったのは94歳になる直前だった(かも。)
どういう経緯で祖母と出会い婿にはいったのか、
戦争をくぐり抜け妻の家業の呉服屋に従事することなく勤め人として仕事を納めた。
私が物心ついたときは祖父は茶の湯を趣味とする頑固な老人であった。
満面の笑みで大泣きする赤子の私をだっこする祖父の写真が記憶の中だけにある。
その写真でもすでに祖父の手は節くれごつごつと乾いたものだった。
運動会は私がリレーの選手のときしか来なかった。
負け試合を見るのがいやで必ず勝つ試合だけ見たいんだと母に話していたという。
そのときの写真もすでに杖を手にしているからすでに老いた存在だったんだろう。
いや、亡くなる一年前まで自転車に乗っていたし、健やかに老いた、というべきか。
私は小学校4年生のころから大学進学で家を出るまで祖父と一緒に暮らした。
生家ですごした9年間のすべてのシーンに祖父がいた。
登校拒否をしたり、暴力行為をうけ私がふさぎ込んでいた時も
覚えていないけどきっと祖父はマイペースな毎日を過ごしていた、少し気にしていてくれただろうけど。
禿て髪がないのに毎月床屋にいっていた。
近所の銭湯がすべて廃業するまで週に2,3回は外湯を楽しんでいた。
相撲と巨人が好きで、ひいきが負けた時の不機嫌ぶりは迷惑そのものだった。
年々早寝早起きが進んで、19時消灯2時起床
たまに深夜に家事をしていた母とおはようお休みを言うこともあったとか。
起きてから家の階段や廊下のモップかけ、玄関の掃除に植木水やり、仏間でスクワットなどの独自に編み出した筋トレと青竹ふみ、お湯をポットにいれ、ゆっくりと抹茶を3煎たてて飲んでいるころに夜が明けてくる・・
祖母との喧嘩も派手にやっていたがいつもぶつぶつ文句を言って敗北していた。
一度だけ父と喧嘩した時のことはとてもよくおぼえている。
早世の叔父のことをはなしていた時だった。
だいぶお酒が入った父に祖父がガツンといつものとおりに言いはなった。その言葉にかっとなった父が猛反撃。食卓はシーン。父の横でご飯を食べていた私は怖くて泣きだした。姉がギャンギャン何かいっていた、お前泣くな、まで言われた。母がなんとかその場を収めていた。
そのあと仏間で父が泣いていた。叔父のことを思ってないていた。
そのことを思いだすと息が苦しくなる。なんで死ぬことにまつわるとこうなるんだ。
避けられないんだったらしかたないじゃないんだろうか
どうしてここまで死んでない人があらゆる部分を削がれてゆくのか。
みんな死ぬんだ、でもここまでくたくたになるまで死ぬを引っ張らないでもいいんじゃないだろうか。
小さな小さなわがやという世界の中に疑問符が渦巻いていた。
子供から大人の入り口に至るまでの時期を祖父とすごしたからか
こまかい思い出が数え切れないぐらいある。
今にして思えばそういう受け皿が祖父だったんだと腑に落とせることもたくさんある。
ただただ、楽しかったなあ、ありがとうって思う。
身の周りのことができなくなって、ナーシングホームのようなところに入った。
高血圧以外はとくに大きな病気もなく、老衰、というごく自然なながれだった。
どこに出しても恥ずかしくない嫁だった母にとっては
屈辱と安堵の混じった終の棲家への移動だっただろう。
少しやりとりができなくなってきてから、眠る時間が長くなって
ある晩そっと一人で旅だっていったときいた。
私は次の人生に向けて走り始めた時だったから、穏やかだった祖父の最期を聞いてとても安心した。
だれもが口にした大往生の意味をかみしめ、私も全力で生きるんだ、と誓った。
予想された死の準備は万端で
くる人たちは皆優しい涙で見送ってくれた。
なんていうんだっけほら、そう、こういうのを予定調和、っていうか。
采配がゆだねられた時にこそ完璧に限りなく近い輝きをみせるんだろう。
どこにも無理がかからない
生まれて死ぬ、当たりまえのながれを当たりまえにできる
そういうのっていうのかなー