together with global breathing

こころが動いたことを綴ります。永遠に地球が平和でありますように。

能登地震、一か月

1月末、ようやく足(車)と避難所とのマッチングが合い

輪島でのボランティアに行くことができた。ちょこっとだけ。

 

自分のための備忘録。

 

 

*壊れた建物などの写真が多いため、気分が乗らない方は読まないでください*

 

 



 

何よりもまず、元旦の能登地震によって命を落とされた方、

避難生活に関連しお亡くなりになられた方、

心からのご冥福をお祈りいたします。

 

地震によって家族や家や、船や車、育てていた作物と田畑、

あらゆる思い出の詰まった全てが失われた方へ、

慎んで心からお悔やみ申し上げます。

 

願わくば、今を共に生きていければと思っています。

 

 

 

 

前入りした金沢。

駅前があまりに大都会で驚き。何でもある。

外国の人も、観光の人も、多くの人が行き交っていた。

鳥居のモニュメントがカッコいい。

 

用意したらいいかな、と思うものを買いだす。

食料と水は頂けるとの情報で最小限の荷物にまとめた。

 

曇天が重苦しい。

4年ぶりの被災地ボランティアで緊張していた。

歩こう。

 

 

何も考えず、高校生の頃に行っただけの兼六園を目指した。

お洒落をした年配の奥様お二人と信号待ち。

同じ県でライフラインが途絶えている場があるとは思えない。

 

二人の会話が漏れ聞こえ、

ご親戚や友人が金沢の二時避難所へ移動したこと等語られていた。

こころを寄せつつも、変わらない日常があるという世界線の妙。

 

 

雪が残る金沢城公園、兼六園、どちらも美しかった。

 

 

日本語以外の声が多く聞こえる。

ほとんどすべての人が

たくさんの写真を撮っていた。

 

 

雪吊りの藁縄が、冬支度の樹木にしっとり寄り添い

厳冬期の風景をさらに調和させていた。

落ち着く。深呼吸と鼻歌。

 

 

庭園内を流れる小川に

シジュウカラなど多種類の野鳥が水浴びに来ていた。

私は樹木…と動かずに待っていたら

手が届きそうなところで楽しそうにさえずり沐浴。

 

和むひととき。

 

その中で、青木のやぶから鈍い色の鳥が川の小石に飛び降りた。

警戒心が強い鴬が無防備に水を飲んでいた。

広い庭園だからこそ、のびのびと過ごしているのだろうか。

 

初めて鴬色のウグイスを見て

思ったよりも小さくて地味で、

あの美しい歌声の、ほんの触りだけ聞かせてくれた悦び。

 

春の兆しは予期せぬ時に訪れてくれるもの。

ありがとうね。

可愛かった。

 

 

梅園、桜、など季節を楽しめるよう造園されている。

素晴らしい配置にしみじみと日本を感じ。

 

 

蝋梅だけがいち早く開花。

えも言われぬ甘ったるい、和菓子を煮詰めたような

濃厚な香りを花の周りだけ漂わせていた。

 

梅の色と、甘さに酸がある

眼が覚めるような様相にはっと惹きつけられた。

 

 

入園料は320円。

ぜひ一度は訪れてほしい庭園です。

 

 

 

 

 

ホテルは前日に予約。

段ボールが摘まれたエントランス。

物資の移送中継点にもなっていた。

若い受付嬢は忙しそうで申し訳ない。

領収書は出ないとそっけなく。

冷たい白熱灯のお部屋で早々に休むことにした。

 

 

8時にレンタカー会社で落ち合い、

初めましてのお互いで乗り合わせ3人。

大きな荷物をぎゅうぎゅうに詰め込んで出発。

 

 

お一人のナースは

大規模な施設にテントを張った場所での経験があった。

その際は、あらゆる感染症の発症から隔離、怪我、転倒、迷子、諍い、などあらゆることに対処なさったと。

 

かなり疲労したと仰っていたため、

今回の配置先が少しでも穏やかであってほしいと願う。

(帰りのピックアップで聞いたお話しでは、非常に良い環境とメンバーに恵まれたとのお話。彼女の雰囲気が穏やかであったことが事実を物語っていた。良かった。その際、看護協会を通し災害ボランティアに入ると、ザックやウエストポーチが支給されるということを知った。慣れないことで、そういうサポートがあるのは助かるだろうね。)

 

 

別の配属先で彼女を下ろし、ドライバーと輪島へ向かった。

 

 

志賀原発の真横を通り抜け、

通れない道を迂回させられ予定時刻より少し遅れて到着した。

 

 

輪島朝市にある輪島塗の事業所12社は全焼。

工房も何もかも無くなった。

世界における損失は計り知れない。

 

 

 

 

 

初めましてなので簡単なオリエンテーションを受ける。

避難されている方々は

日常生活に少しお手伝いがいる、という感じを受けた。

 

全面的に医療が必要な方は、もう適切な場に出たそうで、

ここから1.5次、2次避難所にどう移行するか、というフェーズだった。

 

それと同時に

地域の医療が少しづつ戻り新しい流れも生まれ

この地で生きていくなら繋がろう、という方向性が見えた。

 

それは、

避難されている方と同じように

ここに住まっている医療者の方々も地震にあって、

自分の家や家族のことも抱えながら

地域の人を巡回し始めたということであり、

皆で相談しながらここでの生活を

少しでも心地よくしてゆこう、というポイントでもあった。

 

 

午後は日勤という扱い?でケアに入らせていただいた。

トイレの介助、お話、食事の準備、など。

 

段ボールベッドと床頭台ひとつ分だけの自分スペースで

皆さまは粛々と感情をあらわにせず過ごされていた。

 

一か月、ひょいとすぐ覗けそうな寝床で

動ける家族は日中家の片づけや猫の餌やりに行って、

戻ってきてフルオープンな環境で

日常を編んでいた皆さまの強さ、

そうせざるを得なかった、受け入れてきた力を受け取った。

 

と、同時に

見通しが持てるかどうか、ということは

日々を紡いでいくには必要な条件でもあると感じた。

 

 

この建物の真ん中にある街灯は

夜になって、ほんのりと灯っていた。

斜めになっても電気が通っていて健気だった。

 

あちこちで献花され

手を合わせずにはいられなかった。

 

消防の入らなかった火事。

その威力はこの世の燃えるものすべてが灰に帰す熱さで

いまも焦げた臭いを放ち

炎の残像を刻んでいた。

 

 

 

 

二日目も日勤のお勤めに入った。

主たるサポート団体のメンバーが入れ代わるタイミングと、

お偉いさん方々の視察、メディアの取材、

訪問医療が何度も入ったり、感染隔離のため部屋移動、

症状悪化のため転院、

慣れない私たちも加わったりし、

カオスだった。

 

ここに住まわれて、

幾度となく繰り返されてきた光景であろう。

皆さまはそれぞれに

深くかかわらず、しかし周りへの観察を怠らず、

こころをこれ以上揺さぶられないようになさっているように受け止めた。

 

余震がまだまだ続いている中で

安全なフィールドを保ち続けるのは

それはそれでいつまでも非常時なのではないかと案じた。

 

 

90歳というお店を経営されていた方は、

昨日入浴に連れ出してもらい、

その時に初めて町がどうなっているかを認識し、驚いたと言う。

 

元旦は大揺れの中なんとか外に這い出たが

腰が抜けたか立ち上がれなかった。

みなが避難所に向け逃げていくなか、声をかけても振り向いてもらえず。

もうだめだ…と、あきらめたときに、ある男性が来て背負って逃げてくれたと。

 

命からがらであったが、その後もあまりに絶望的な状況と余震で

もう生きていたくないと思った。

しかし、こうして若い人が支援に来てくれて

それだけで希望が持て、もうちょっと頑張らないとと思った、と。

 

この方から見ればほぼすべての人は若い人だが

来るだけでこんなお話を聞かせていただき

切なくて胸が熱くなるのを感じた。

 

お店を再建するのに30年かかると言われても、

生きる希望をどこに見出すかは、それぞれの生きざまに在るのかな。

 

 

2月1日16時に全員で黙祷した。

自然と頭を垂れ、手を合わせていた。

 

 

 

 

三日目は夜勤入り。

朝は普通に起きて、夜勤者さんから緩やかに業務を引き継ぎ少しケア介入。

避難者さまと交流できるのが嬉しい。

 

こちらのことを理解なさって、長話にはならず

挨拶をかわしつつも、微妙な距離をとりながら

心を開いていきたい思いを交換した。

と思われる。

 

夜勤明けの方と、チームリーダー、サブリーダー、

4名をトークセンで施術させていただいた。

 

医療から離れ11年、ぶりに夜勤に入る危うさをごまかすために。

もちろんそれだけではなく、お疲れを取ってほしかった。

 

木槌を叩いていると落ち着く。

気が整ってくるのもわかる。お互いに。

 

数時間ホテルで仮眠させていただき、夕方から仕事に入った。

 

皆さまの顔や、ケアの度合いも何となくわかっていたとはいえ

あたふたと過ごしつつも、ゆっくりと夜は更けていった。

 

 

車いすでトイレ介助をしていたら泣かれた。

「わたしだけが皆様にご迷惑をかけている」

そんな風に感じていたなんて想像だにしなかった。

 

動けなくなったり、認知が鈍ったり、

一人で暮らしにくい方はとっくに別の場所で過ごされており、

ここでほかの方と比べていたのだと思うと胸が痛んだ。

 

良い言葉をかけられなかったけれど

おつらい気持ちをしっかり預かって

その後は静かに就寝なさった。

 

 

交代で仮眠に入ったり、簡単な申し送りがあったり、巡視したり。

記録こそないけれど

ああ、こういう時間だったと思い出していた。

 

 

緩和にいたころも夜しか話せない人がいた。

日中はケアや処置や説明など、業務で慌ただしく

気持ちだけにたっぷり時間を割くことができないときがあった。

 

一般病棟よりも手厚い人員配置であっても、

今ここ、このとき、というタイミングが来るのは

勤務交代のときとか、夜とか、

医療者にも余裕がある時だったように思う。

だからこそ、もっとゆったりとお仕事ができればいいのにと思っていた。

 

 

夜勤が好きだったな。

ここで今一度思い出すことができてよかった。

 

 

 

朝が来て、いろいろとあった夜を見送り

早く上がれ上がれといわれ、本部でご飯を頂いた。

 

元気になったのでまた4名トークセンをさせていただいた。

避難者さんに施術することはできなかったけれど、

皆さんに良い影響が行くように願った。

 

依頼されたことは看護師としてのお勤めで、

たぶん、不完全ながらも終えることができた。

と思う。思いたい。

 

 

セラピストは避難所に必要がないかもしれないけど、

ここで、このひとに、何がおこっているのか、

そこで何ができるのか、ということを真剣に考えるというところで

決して不要な人はいないのではないか、ともう思うのだった。

 

 

ともに夜勤明けを迎えた方と、同じ団体のメンバーと、

近所の酒屋さんへ行った。

 

能登にある酒蔵11社のうち全壊が5社、半壊・一部損壊が6社。

この冬に仕込むことは不可能ということ。

 

酒屋さんに残っているお酒を求めることにした。

これも支援の一つだよ、と言われなるほどと。

 

店舗も被害を受けていたけど

ボランティアや支援で入っている人が買いに来るため

酒蔵に余っているお酒を取り寄せ販売していた。

 

おかげでレアな逸品を手にすることができ

酒屋の社長さんには何度もお礼を言われたが

こちらこそ貴重なものを頂けて嬉しかった。

 

生き残った子たちが、出て行って喜んでもらう、

それはきっと嬉しいだろうなと思った。

 

 

 

 

夜勤のあとは何倍にも重力を感じるのだけど、

ある人をトクセンで施術した時に

あらゆる緊張や不安や疲れが吹っ飛んでしまった。

 

 

純粋に力になりたいという思いで

仕事を辞めてここまで飛んできて

100%以上の力を発揮しお一人お一人に注力していたひと。

 

能登が大好きでいてもたってもいられなかった熱意ゆえ

チームでぶつかったこともあっただろうが

ここにいる人のために何ができるか、という気持ちと

地震の前から何度も訪れた大好きなこの地への愛情が原動力。

 

この人が精魂尽き果てるほどのお働きを見せ

(ボランティア活動だけでない問題への介入もあり)

充実をこえ疲れ切っていた。

 

何も考えずにトークセン受けましょう!とお誘いし施術しはじめたが

なかなか流れず入らない。

けれど動いているものがある。

 

集中し、慎重に、丁寧に、

肋間の一つ一つからその奥に向け呼び掛けた。

思いのほか痛いということで、小刻みにたたくしかできない。

 

細くて華奢な体のメッセージを伝えつつ

意識と最上のアコードを生み出すべく寄り添った。

 

小一時間の施術の後、

気を込めてホールドした。

ここにご縁のある方に違いないから…

大地に手伝ってもらおうと思ったが

ガチャガチャしていてうまく繋がれない。

 

そうか、地震があって場もベクトルがあちこちにあるのだ。

お空とどこを軸にここへ流していただくか、、

すっと入ってきたのが海だった。

 

日本海の大海原は、

ここ一週間のぐずつきを吹き飛ばすほどの青空を映し

ゆったりと凪いでいた。

 

とたんに、

この人の細胞のひとつひとつが

海の精機を吸い取るように潤っていくのが分かった。

 

 

ペンキ画家のショーゲンさんが行っていた言葉。

大自然にとても愛されていた、その記憶を思い出して。

まさに、その通りで

海はずいぶん前から彼女も含めこの地と人を愛していた。

 

そしてここの人を全力で支えに来た彼女にも

同じように今までと変わらない愛を

思い出させるがごとく注いでくれたのだった。

 

余ったエネルギーは

彼女の美しい両目からあふれて流れた。

 

 

ごくまれに、

こういうピュアな瞬間をクライアントさんからシェアしていただける。

今回もおこぼれを頂き

晴れ晴れとした気持ちになったのでした。

 

 

ありがとうございます。

わだつみのかみ。

今年の私のキーマンとなる御方。

 

 

 

 

たった三泊四日の活動だったけど

あっという間で、そして目が覚めるような経験を頂いた。

 

関わってくださった方々には感謝しかない。

本当にこのたびも

ありがとうございました。

 

 

 

いつも思う、

結果的に自分のためになってしまうボランティア。

自分のためにやっているのだ、と言い切ることは

まだおかしい発言なのだろうか。

 

 

たとえば経済的な視点から見たら

国際的な活躍ができるような大きな協会は

給与の保証、物資の提供、安全の確保、など

ボランティアではない規模で確立してきている。

ゆえにできることは大きいし、県や国にも言うことを言っている。

 

そして政策を動かし、より安心できる日常に還元していっている。

こんな大きなうねりを生み出すことは

瞬間だけのボラ一人ではすぐにはできないだろう。

 

 

各地でスーパーボランティアの方々に出会ってきた。

全然すごい。無私。

活発な献身は身ぐるみはがされた方の背景から支えていた。

 

その時間がその方々の人生になっている。

支えながら支えてもらっている、

必要とされながら必要としている、

気にかけている、気にしてもらっている。

 

豊さとは、こういう積みかさねではないだろうか。

 

 

 

 

耳が遠くなり、鼻もきかなくなり、眼もみえづらく、

頭は何回転も遅くなって、物忘れして動けない体になっていって

徐々に機能を手放していくことの開放感はあったとしても

その時に誰とも交流がないなんて

貴方に会いたいよ、と言われないなんて。

 

そんな寂しいことにも耐えながら

もうそろそろ死んでも良いかな、と思えたとき

都合よくお迎えが来ればよいだろうが

思うようにはなりません。

 

一人で何もできないでいる時間が長くなってきたときに

あんな時にこんな人に出会って、あんなこと気づいて、

うだうだ話して、感じて、考えて、こういうこと知ったな、決めたな、

という走馬灯を繰り返すなら

私はたくさんの経験をしてみたいと思う。

 

それが思い付きのボランティアであっても、何でも。

死ぬ瞬間まで。

 

 



北陸割?みたいなGOTOが始まったとか。

そんなものよりいち早く、

金沢の飲み屋さんはそれぞれに支援に入っていた。

頼もしいな。笑顔の人が増えますように。

 

 

 

 

お供はこの方と。

千枚田って知らなかった。

千枚田について – 白米千枚田

 

地震でひび割れがあったようだけど、

お米の収量も落ちてしまうのだろうか。

写真がきれいだったので、ぜひ見てほしい。

 

いろいろな種類、7本持ち帰ってきた。

お世話になっている方々にお配りするもよし、

自分でも味わうもよし。

もし奇特な方がいたら、有料で引き取っていただいても構わない。

 

 

ほろ酔いでつらつらと書きたいように書き散らした。

 

 

ここで書けないこと、気が付いたこと、たくさんたくさんあるけれど、

もし関係者の中で、この写真、この文、やめてほしいということがあったら

遠慮なく申し出てほしい。速やかに削除します。

 

 

もしご飯に行く機会があったら

石川のお酒や料理をぜひ味わってほしい。

 

 

災害がない場はなく、それぞれ頑張っている。

でも、今はまだホットな能登

しばらく心を寄せ続けよう。

 

 

 

 

 

 

いろいろな記事に上げられている。

客観的な取材、介入している団体、などについてはこちらを参照。

 

取材に入っている人によって、違う見方もある中の一つ。

時事刻々と状況は変わっているため、

経過の中のある一点、としてシェア。

 

www.powerweb.co.jp

 

こちらでお世話になったので、

奇特な方がおられましたらお気持ちとともに支えてほしいと思ったり。

 

smart-supply.org

 

時事通信の取材に時には立ち会っていた。
見守りだけの人‥。

sp.m.jiji.com