together with global breathing

こころが動いたことを綴ります。永遠に地球が平和でありますように。

池田さんから教わったこと、の気付き①

携帯もパソコンもいらない、考えるには。

頭だけあればいい。

たどればわかる、その言葉はどこかのだれかが発したこと。

それを聞いて見て読んで考えることだけができること。

 

 

初めて入職した病院で働いていたころ、看護研究の担当になった。

看護の志なんて爪の先ほどもない動機で現場にきたうえに、

後世にこの医療を継承していくことも職務だとかいう考えには

教えられても理解ができなかった。

嫌で嫌で仕方なかった。

ペアで組んだ同期には申し訳ないほど丸投げし

プレ発表だけは行ったものの、完成前に病院を辞めた。

 

発表の時に優秀な先輩から言われた言葉を最近思いだしていた。

その時はショックしかなくて何も考えられず闇に葬ったけれど、

今になって遠いところからその理由を眺めている。

 

「あなたのは持論にすぎない。」

丁寧で優しい先輩。的を得た指導をしてくれる人だったゆえに、言葉にならなかった。

 

そして今考える。

 

志したとき、私は死を科学の面でしかとらえていなかったということ。

 

こういう過程でこうなることが生きている身体から死体への経過だということ。

そのカテゴリーの中で決めた「死の判定」をクリアしていること。

 

知りたかったのは、死ぬとは、生きるとは、どういうことなのか。

そのことへの学びや探求はどこかへいってしまっていた。

現場で聞かれたり必要にされたりディスカッションすることはなかった。

 

出勤して患者さんの状態を調べ点滴や投薬、お風呂や食事など本日の予定をこなし

相談したり話しあったり、医師の指示をきいたり、経過を記録し容態を次の勤務者に引き継ぐ。

 

そんな積み重ねをミスなく行うなかで生きる意味を問う瞬間は一ミリもなかった。

科学では死の定義から異なっていた。

 

持論と喝破されたことは、私が心から知りたくて悩んで考え抜いたことだった。

それは医療の世界で求められたことではなかった。

ましてやまとまらない考えだけで、研究とは程遠い。

 

「仕事」は望まないこともあったけど

同僚とのチームプレー、患者さんとの交流、勘違いだけど万能感も感じたり、

それはそれで十分すぎるほど充実していた。

毎日クタクタになって白衣のまま寝たこともあったのに楽しかった。

 

たくさんのことを気がつかせてもらえ、教えられた。

看取りは医療だけではない世界だということも知った。希望だった。

 

こころに火がともって願いを叶えたけれど、納得できなかった。

何度も患者さんを見送って思う。それで、死ぬってどういうことですか。

 

池田さんも答えを出さなかった。

考え続けることで紡がれていくのだろうか。

 

医療や科学から完全に離れたところで

ひそやかに頭を巡らしている。

 

言葉を超えて、体感も超えたところで

少しかすってとらえていることがあるけれど、

それが死なのか生なのかわからないけど

自分の手でしっかりつかみたい。

 

ないない尽くしだけど、だから行けるところまで行けるのかもしれない。