ご連絡とお伺いに始まり、感謝とご報告で締める。
登拝の王道をひとつを記録する。
梅雨明け十日、文句ないほどに晴れ晴れと晴れ渡る青空で集合し祭壇で心を込めて祈る。
今から何者が伺いますのでどうぞよろしく旅の間見守りくださいませ、と告げ。
一昔前は100日間の精進潔斎が普通だった。
どうぞお邪魔することをお許しくださいませ、と
潔斎してない身としては心から祈るのみ。
物事は段取り。順番にならって神社と祠へ伺いますのご連絡。
せめてもの滝行。清滝につくころには土砂降り。
観光で来ていたお客様までお人払い。ありがたきかな。
どんどん強くなる雨脚。水量の増える滝。
嬉しい。こんなにも清めていただき安心して入滝。
肉から湧き上がる歓喜とシンクロ。
全部明け渡していけることの尊さ。
命の如何ではもはや修行とは言わない。
お楽しみ、はいそうです。
こんな動機で後ろめたさを感じつつも、
きっとこの山行に必要なエネルギーを心身とも払われ授かった。
仁王のごとく無敵の甲冑がふわりと身体を包むように。
雨が降っていたのは限定された時間と場所のみであった。
このタイミングを後押ししたFSYさん、あなたのための行であることは明白。
自覚もあったでしょう。ほんとに励まれました。
ご一緒できたことを腹から喜ぶのはすべて終わってからになるのだが。
明日、いくでー!と裏街道から拝する。
シルエットの安定感抜群の御岳。
順番が大切、とある法則に則り拝み倒して向かうのであった。
もう木曽の御岳エリアはすべて霊場。
生々しすぎる霊気。行者の息遣いが聞こえそう。
さて、初登山のFSYさんと行者ダディ。
ロープウエイで上がった先は2000🅼超えなので
ゆるゆる高地順応しながら出発するのであった。
ザックを背負うだけで酸素消費は上がる。
注意深く自分の心拍とメンバーも観察す。
そしてグローブとサングラスを登りで奉納することに。
探しに少し下山したけれど早々に諦め。
きっと必要なことなのだ。
物の見え方、手の使い方を考えろということだ。
ダディは私たちのためにスモモにバナナ、キュウリや味噌をも背負ってきてくれていた。
めちゃ嬉しい心遣い。お気持ちだけはたっぷりいただく。ありがとうございました。
途中休憩の茶屋でランチをしたときに、2時間でこれる八合目までに
4時間かかっていることを悲観したFSYから
「宿泊先(二ノ池山荘)に日がある時にたどり着けないのでは」
との言葉があった。確かに今13時過ぎ。ゆっくりきた。
しかし呼吸を整えながら登るには必要な時間だったと判断。
ランチは軽めに抑え出発。
ここまで時間をかけたらあとはいける、と滝で来た背中の仁王が言う。
FSYの歩みがおぼつかない。負荷を減らす必要あり。
ザックを私が持つ、自分のペースで苦しくない程度にいこう、と声かけ。
はっと動けるようになった彼女のペースは安定してきた。いける。
石の急こう配に差し掛かったときは杖も預かりFSYの思うように任せた。
ダディは終始見守り声掛け。FSYの頑張りをただただ応援するのみ。
人生で初めての3000🅼超えの登山。安全を最優先で。
いやそもそも無謀だったかもしれないけど。
いついかなる時も祈りを欠かさず。
道中、たびたびお会いした3人組の業者さまかたがたもガチの祈り。
祈りで生きるってどういうことなのか。
16時過ぎには山荘に到着できた。頑張ったー!
ゆっくりストレッチをして荷をほどく。頂上は翌日に繰り越し。
祈りと休息。周辺を少し歩き噴火(2014年9月27日)後の状況を見る。
二の池は水がほとんどなく、雪渓が解けた水が流れていた。
この辺の池を生かして風呂まで沸かしていたという贅沢におののく。
神の山でどこまで人がどのようにふるまうのか、
改めて考えていく必要があるようにも感じる。
亡骸が埋まっている場所もあろう、静かに散策する。
しかし気が良すぎる。ここまでこれた喜びも相まって気が上がる。
呼吸法を忘れずに湧き上がってくる喜びを噛みしめ体に収めていく。
夕ご飯食べるとドキドキ。休み休み。
消灯の20時までゆるゆるマッサージタイム。
標高3000mでヨガポーズ取らなくても良かった。
家族旅行に同席したようで気恥ずかしいけど楽しい。
浅い眠りながらも体はしっかり休ませる。
朝はガスって日の出は望めず。
5時半の朝食のためにボーっと寝起きで準備す。
下山もどうなるか未知数。
登頂の奥の院へお参りしてから下りるため6時半には出発。
高地順応はできており頂上まではまずまずのペース。
ガスが風に吹き上げられ瞬く間に現れては消え、独立峰の勢いに元気をもらう。
頂上は光にあふれ
ひとりの祈りの時間をもつ。こみあげてくる涙。
出てくる言葉は「ありがとう」しかない。
それだけしかないという稀有な時間。
下り。FSYは足首が柔らかく登りよりツボ足を意識しないと危うい。
新調した登山靴のひもを締めなおし、気持ちも引き締め、ちから餅をご褒美に
景色のいろどりを味わいながらおやつを頬張る姿は
どことなく自信と覚悟がついたように思った。
ゆとりのペースで高山のお花畑にも自然と目が行く。
短い夏にわらわらと勢ぞろいして咲いてくれる宝石。
噴火後の灰が厚く堆積してそれ以前とは風景も変わったことだろうが、
ハイ松など少ない樹木たちにもきっと刺激を与えた。
乾いた幹が風よけを作ってくれている。
ロープウエーまでくると空気が濃く感じ、駐車場はもうすっかり夏の暑さだった。
帰路、諏訪の秋宮でまた違った地場に触れ
諏訪の神々の中でも柔らかい気に身体を労わってもらえるのだった。
連日のロングドライブだけでもお疲れのダディ、お世話になりました。
ご自宅に着いたのはすっかり夕焼けのころ。
無事に帰ってきました報告を当たり前ではない安全とご加護に感謝しながら祈る。
お庭で栽培されている夏野菜をたっぷりいただいて
バス停まで見送ってくださる温かい目は少年のようでもあり
父としての満足感にあふれた人間のそれであった。
行者であり親であり、成すことを成し、伝えることを伝えたい、
そんな家族時間を共にした三日間。
登拝そのものの喜びはもちろん強烈であったが
この親子と御岳山、ということも一つのミッションだったよう。
ずっとそこに居てくださった仁王の面影は徐々に消えていき
出発した駅まで時刻通りに戻ると日常が顔をのぞかせていた。
心身ともに満たされたのは
今までにない勇敢な自分を発揮できたこと、
それを受け取ってもらえたこと、
非常に謙虚な姿を見せてもらいながら
自然と頭を垂れ今の幸福を感じられたこと。
何事も当たり前におぜん立てされることはあり得ないし
簡単に手に入るものは退屈で
生きている実感を与えるものではないこと。
もう一歩、能動的に踏み出したい、
しがみついてでもやり遂げたいというあのころの気持ちに匹敵する何かまで
もう少しのような、そこを俯瞰したまま到達するような
漂う意思の中に生を見出してゆきたい。