看護学校の実習で同じ年齢の方を受け持った。
分娩前後で関わり、本当に出産は双方とも命がけであると体感した。
お産は病ではなく
受胎というご縁と、ある程度の健康体があれば最小限の医療介在でできるもの。
実習では病院だったので
自然なことという認識より数値や時間、業務と勉学との兼ね合いであり
こころを砕くことはなかった。
ただ、赤ちゃんが可愛くて、お母さんが輝いていた。
そして出産のときに指導助産師にもご家族にもはばからず
観察や記録そっちのけで号泣してしまったという感動がまだ記憶に新しく残っている。
生きるという力
この世において唯一無二の純粋な圧倒的意思だった。
母が自分を産んでくれた時のこと、
その母も祖母から生まれたということ、
その前も、その前も、父も祖父もそうやって比類ない祝福と共にあったから
こうしてここまで血が継承されてきたんだと明白に認識できた。
看取りをしたくて看護職となり、どうにかお仕事をいただいてきた。
自分なりに頑張って、そして多くを教えられ謳歌した。
ここからの送り出しはある意味あの世への生まれなおし。
充分に生き切ったことを祝福し、お見送り。
出産とはまた違う意味での感動がそれぞれの人生にあった。
どちらも人生における強烈なハイライト。
ドラマティックな世界に夢中になり、生きている甲斐はこうして感じられる、
そんな興奮と自己への信頼を育んでくれた。
生と死、その間にある数十年に意識的に関わるようになってからのほうが
右往左往して自分らしく居られていない、まだ。
大波小波を小さな生まれなおしと捉えて人と関わることは
時間と出来事の積みかさねを共有しているうちにできるもう一つの人生になり
それを幅が広がったと喜ぶべきか
肉が付いたと自分を鍛えなおすきっかけにすべきか。
それはまた別の時に考察しよう。
②に続く。