三月下旬から燕が飛び交い、
柔らかな新芽が延びた光を全身で受け止めている。
地元にも桜が舞う季節になってきた。
短い出張から帰宅したらほころんでいた蕾が開花。
自宅で愛でる花見とはなんという贅沢。
知らず鼻歌、ああ上機嫌なんだなあとか。
ソメイヨシノは江戸時代に開発されたクローン。
人の手で土手や公園、庭先に植林されてきた。
それほど愛され思いを寄せられてきた樹木のうちの一つ。
だけど時に人の都合で健康であっても切り倒される。
芯が空洞になっていない樹木こそもう30年ほど待てなかったのかと思う。
形成層から樹液がにじんで
きっと真白が淡色に染められるほどの力を秘めていたであろう残念。
1mほどに切られた枝が捨てられていて哀れに思い持ち帰って水に差す。
全てを持ち帰られず気にしながら見ていたら切られたまま花を咲かせていた。
いじらしくて美しくて強くて、そんな桜にこころ惹かれていく。
今年のテーマレメディはチェリープラム。
この感触を忘れない、忘れないよ、と声をかけた。
銀杏もまだ50センチ足らずで排除されていた。
車社会で木陰に思いも馳せられないのであろう判断。
昨秋の切り株の周りには無数のひこばえが切り株を凌ぐほどあった。
それすらも切り捨てられていた。
地元の豊かさを甘受する人の言葉を覚えている。
木なんて切っちゃえ
体温がひんやりと下がっていくような気がした。
柳が黄金の花をつけている。
赤松が朝日に焼けでさらに赤々と枝が燃え
春分の稀人として内服しつつ季節の変わり目を支えてくれていた。
体感と学びが違う事の中からいまここの流れにおける真髄にたどり着けますように。
ヒマラヤスギの乾いた種は陽光には似合わない。
けれど針のような葉はさらに緑を深めていく。
ひとつひとつのお花を味わう気持ちが追い付かない。
河原、公園、境内、誰かのお庭、裏山、空き地、
アスファルトじゃない駐車場、あらゆるところから
ゆらゆら、陽炎のように湧き上がってくるなにかが
植物の形になって天に昇っていくような春。
木蓮の白がはやい。濃紫の蕾も追いかけてくる。
同時に辛夷もおいついてくる、眼の保養。
前年の葉と根から蓄えた花の力が爆発する。
未来への投資を先に考える種族たちの知恵。
8年ぶりの御開帳もいよいよ。
回向柱が到着してからぐんと気がしまってきた。
木遣り歌のなんと哀しいこと。
樹木にこころがあるならば届いてほしいささやかな感謝。
朝六時の勤行でもすでに活気があり
低い読経の調べに自然と手を合わせ。
三柱を拝し綱の先にあるはずの掌とハイタッチ。
狂気に迫る開花のど真ん中で
うららかに、
うつらうつら。