2019年12月、台風19号で千曲川が氾濫した長野へ向かった。(台風は10月に襲来)
家屋や家財の洗浄、清掃、片付け、果樹の根元にたまった泥かきなどの活動をした。
全国の被災地になった地域へはいくつか行っていたが、
色々な考えや思いで全国から人が集まり、活動がおわったら解散。
さっぱりとしたボラ同士の関係は自分に合っていた。
地元の方からお礼にみそ汁やリンゴなどふるまわれ、
恐縮しながら美味しいを分かち合うことは嬉しかった。
それ以上仲良くなったり交流が続くことはまれだった。
そこに生きている人の生活は、どこかへ移動しないまでそこで続く。
災害にあって援助を受けたことがない身としては、
体感をもってわからないことはわからないままだなと感じる。
公共工事が始まるまでも時間がかかり
見通しが持てない暮らしをおくりながら希望をどこかに見つけて行く、
そういう折れた幹を抱え春には花を咲かせていく強さを
どのように育んで生きて生きてきているのだろう。
そして大地は、
どんな風に今までもこれからも変わらず続く破壊と再生を
私たちを乗せて繰り返していくのだろうと思っていた。
漠然とだけれど、経過を見ていくことが
共に生きるという実感に繋がるのかもしれないと再訪問を終えて思った。
千曲川の決壊した河原へ地元の方に連れて行って貰うことができた。
休日のため工事はされておらず
静かに夕刻の風に吹かれていた完成前の護岸。
水につかったであろう住宅街は
新しい家に替わっているところもあれば
古い蔵には二階近くまで水のあがったシミが残っていたりした。
リンゴの木は今秋の秋に向けムチムチと実を太らせ
畑や低木の果樹も青々と葉を茂らせ
河川敷にはいつぞやに暴力的に折れひっかかっていた流木など跡形もなく
赤とんぼは飄々と風に乗っていた。
犬の散歩をしている人が一人。
街中で人影はなく沈黙をしているかのように感じ
触れてはいけないことや時期についてぼんやり考えた。
3年でどうにかできることできないこと、
変わらないことと変わったこと、
もうそれぞれの内を聞くことはないのかもしれないし
いつかまたどこかで
耳を傾ける日が来るかもしれない。
機会が来た時に
希望を見つけ生き延びた人と、こころを開いてお会いしたいと思った。
備忘録記録として。