together with global breathing

こころが動いたことを綴ります。永遠に地球が平和でありますように。

浅草橋HM2023

今年初のイベント出展を無事に終えられました。

お越し下さったみなさま、お気持ちを寄せてくださった方々、

改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。

 

 

浅草橋の会場設営を終え、浅草まで隅田川をブラついた。

お正月かと思うほど人がひしめき合い祭り前夜のよう。

 

お師匠繋がりの仲間とビニール囲いの居酒屋で飲んだ一昔。

もう店はわからない。

変わらないのは浅草寺と花屋敷。

 

感傷ではなく住めばいろいろなことを経験するもの。

イベントで出会い長らくお会いしていた方にも会わなくなり

一見さん、出展者さん、古いお仲間・お友達。

 

生きてきたようなお身体に触れて

触れてもよくわからないところは言葉で

どれでもないところは背中で表現され

様々な魂の入れ物が行き交っていった。

 

痛みとか凝りとか足の長さが違っても

それぞれに完成され美しい。

その人の生き様そのもの。

 

また会いたいと願ってしまうのでした。

 

またのお越しをお待ちしております。

ありがとうございました。

 

 

 

 

少し前、

東京で雪が降った時にホテルが予約されておらず

大きな荷物を抱えて霙をのなかをさ迷った。

 

自業自得なのだけど

頼れる人もいないではなかったが

ハプニングにしてしまおうと思った自分がいた。

 

どんな選択がありどれを選ぶのか

そんな自分にワクワクもした。

 

こんなことがあって大変だったんだよ~、とか

連絡してくれたらよかったのに~、とか

何かあったら助けてねー、とか

そういう小さなネタになることまで想像していた。

 

簡単に失望しないでいられることが

健康だったり豊かさだったりいろいろ条件はあるだろうけど

有難いなあと思った。

 

 

翌朝の日枝神社

 

紅白の梅がほころんで

その翌週には菜の花と沈丁花が香る境内を

そっと温めいていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

久しぶりに喪失について考えた。

 

 

自分にとってかけがえのない人がいなくなるというのは

どういう事なのかと。

 

一生に一度あるかどうかということ

それがどのような出来事なのかわからないまま日々があるということが。

 

 

人生を退場した側と

退場された側が

同じ歩みではいられない。

 

何が起こったのかわからない者同士がいれば

互いの削り取られた部分をかばいながら暮らすことはできるだろう。

 

その時にも弱いものがかばわれ

力のあるものはかばうことで支えあう。

互いが居て保っていられることに支えてもらう。

 

失ったものの大きさや重さ、温かさや思いを

集まって一つになって言葉にして探しながら

ないことをないねって重ねあう。

 

ないを知り知らされ伝えていく間に

ないがあるようになる。

 

ないいないことがあるようになっていくうちに

ようやく哀しみを引き受けられるのかもしれない。

 

 

 

 

 

ほんとうにつらいことはつらくなれない。

哀しみも、寂しさも、ないことにしていればない。

 

半身を失ってどんなふうに歩ける、笑える、眠れるか、

だれにも教われないし

そうならないとどうなるかわからない。

 

 

 

もしひとりだったらきっと

なかったことにしてさ迷うだろう。

 

生きながらないがあるに変わるまで

わからないに耐え忍ぶのだろう。

 

雨宿りを繰り返し

誰かの軒先が真実になることもあるだろう。

 

ささやかな優しさを分けてもらいながら

ないものを抱えここではないことを知る。

 

 

流浪の刻そのものが

ないを慈しみ味わう人生になるのかもしれない。

 

 

もう飽きたよっていうくらいまで

やってみたらいいのではないかしら。

 

残念だったなとか、

たらればとかでもいいし、そうでなくてもいい

 

そうしていくうちに、

かけがえのない人を失ったんだ、ということが

微塵の悲壮もなくそのままぴたりとはまるだろう。

 

その旅路そのものがかけがえのない人生。